「北大じゃなければプロに行っていない」自由な野球部で開発された能力

「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士で有名な北海道大学は、国立の難関校として知られる。前身の札幌農学校時代に生まれた野球部は実に1901年からの歴史を誇り、今季124年目を迎えた。昨秋、この野球部から初のプロ野球選手が生まれた。独立リーグの徳島インディゴソックスを経由して、西武にドラフト5位指名された宮澤太成投手だ。大学入学時には思いもよらなかったプロ入りは、どのように果たされたのか。一浪一留という経歴に先を阻まれながらも、この大学で過ごしたからこそできた「理詰め」のプランで乗り越えたのだという。(取材・文=THE ANSWER編集部 羽鳥慶太)

 高校最後の夏は長野県大会の3回戦、投手になったのは高校2年の途中から。そんなどこにでもいそうな高校生がプロ野球のグラウンドに立つまでには、国立大学の野球部で磨いた思考力が必要不可欠だった。西武のユニホームがすっかり似合うようになった宮澤に、北大野球部で学んだことを問うと、重みのある言葉が返ってくる。

「自主、自律を経験したことですね。自由って難しいと思うんですよ。自由の中でうまくなるのって本当に難しい。サボろうと思えばいくらでもサボれるし、突き詰めなくても別にいい。でもその中で、自分は仮説を立てて実行し、検証するという能力が高められました。大学で身についたものだと思いますし、北大じゃなければプロに行ってないと思います」

 北大野球部のグラウンドは札幌市のキャンパスの一角に、ポプラ並木に囲まれて存在する。冬は当然のように積雪で使えず、練習はトレーニング室やビニールハウスのブルペンの中。練習内容もあくまでも学生主体で決めていく。そんな野球部の空気が、宮澤には合った。

 出身の県立長野高は長野県有数の進学校。進路を選ぶにあたっては、野球も勉強もしっかりできる大学が条件だった。ところが現役時は受験に失敗し、1年間浪人生活を送る。北大に過去、全国8強の実績があることはこの頃知った。みごと受験を突破して野球部の一員となると、1年秋からリーグ戦で登板した。ただ当時の北大は札幌学生リーグの2部に落ちており、プロ野球はまだ遠い彼方にあった。プロへ行きたいと具体的に考え始めたのは、いつだったのだろうか。

「小さい頃は誰でも思うじゃないですか。でも明確に意識したのは、大学野球部で最終学年を迎えた時です」。その直前に行った“集中投資”が、成果となって帰ってきたからだという。

 札幌学生リーグ2部で迎えた3年秋。開幕直前に右太もも、期間中に右肩を痛めたものの4勝を挙げ、MVP、ベストナイン、最優秀投手に輝いた。考えながらの練習で、少しずつ自分の力が伸びていくのが分かった。野球がどんどん面白くなっていた宮澤は、一つの決断をする。

人生を変えた個人レッスンと、出せなかったプロ志望届

 冬になると、球速向上を目指して東京のトレーニング施設に通った。交通費は、どんなに安い航空券を探しても片道1万円を下らない。レッスン料を含めれば1度にかかるお金は5万円近くなる。学生にとっては大金だった。

 大学生活を通じて、アルバイトには勤しんだ。居酒屋や宅配便の倉庫、コールセンターの職にもついた。この冬はそこで稼いだお金を、ひたすら自己改造に注ぎ込んだ。「日帰りが多かったですけど4、5回は行きましたね」。結果ははっきりと出た。春を迎えると、自己最速の151キロを計測。都市対抗にも出場した社会人チームとの練習試合に先発し、8回1失点と圧倒した。

 プロ野球のスカウトの視線も集めるようになった。この先も野球を続けたいという思いが強くなったところで、制度に先を阻まれる。宮澤は2年から3年へ進級する時に留年しており、卒業するためには5年目も大学に籍を置かねばならなかった。

「プロ志望届って、卒業見込みじゃないと出せないんです。『留年してるなら来年だね』と言われて、初めて知りました」。そして、大学野球の選手として公式戦に出場できるのは4年間だけ。プレーの場がなくなると知っても、一度燃え上がった心の炎は簡単に消せない。プロ野球選手になるにはどうすればいいのか。法学部の学生らしく、理詰めで考えた。

「社会人野球も頭にあったんですけど、ここでも制度上2年間はプロの指名を受けられません。そうすると僕は、どんなに早くても26歳になる年でプロに行くことになる。これは結構厳しいのかなと思いました。だったら独立はどうだろうと。1年間でプロに行くと決めて来ている選手も多い。僕のニーズにマッチしているのかなと」

 進んだのは、2013年から11年連続でNPBのドラフト指名選手を生んでいる、四国アイランドリーグの徳島。宮澤はここで最速155キロまで球速を伸ばす。新たにフォークを武器にし、プロのスカウトの目に止まった。ソフトバンク3軍との試合を、きっちり抑えたのも大きなアピールになった。

 プロへの大きなきっかけとなった20万円を、宮澤はこう表現する。「身銭を切って行くことが大事だったのかなと思います。自己投資というか……。お金や時間、いろんなものを使うたびに少しずつうまくなった」。自由な野球部で、あえて野球を突き詰めようとしたことが咲かせた大きな花だった。

(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)