太平洋戦争中から終戦直後にかけ、東北各県に計11カ所あったとされる連合国軍兵士の捕虜収容所。あまり知られていない収容所の実態を後世に伝えようと、山形県酒田市など庄内在住の市民有志がこのほど、同市にあった収容所の記録集を出版した。

 戦争捕虜(POW=Prisoner of war)の調査をしている市民団体「POW研究会」によると、連合国軍兵士の捕虜収容所は全国で約130カ所、東北では青森県七戸町、秋田県小坂町、岩手県釜石市、宮城県栗原市、山形県酒田市、福島県いわき市などに11カ所あり、多くは鉱山や炭鉱などに設置されていたという(所在市町名はいずれも現在)。

 同会によると、酒田市の収容所は1944年10月から45年9月までの11カ月間、同市の酒田港近く(現在のとびしま定期船発着所から北東に約300メートル地点)に設置されていた。太平洋戦争初期の「シンガポール陥落」などで日本軍の捕虜となった英国や豪州、米国、オランダ各国兵士312人を収容。終戦までに18人が死亡した。酒田収容所での捕虜の扱いを巡り、戦後、戦犯とされた関係者がいた、という記録はない。

 出版されたのは「酒田捕虜収容所・空襲〜過去の証言、未来への教訓〜」(124ページ、1千円)。2019年11月、庄内在住のPOW研究会員や郷土史研究家ら有志4人が発起人となって記録集編集委員会を立ち上げた。月1回の会合や計11回の公開勉強会を重ね、延べ144人の参加を得るなどして情報をまとめ、今年3月に刊行した。

 元捕虜が残したスケッチを表紙に、酒田や国内にあった収容所の概要や捕虜の食事、衣料など日常生活、収容所の様子を見聞きした人々からの聞き取り内容、行政の記録や出版物に登場した酒田捕虜収容所などが紹介されている。捕虜は酒田港での石炭や木材の荷揚げ作業などに従事させられていた、という。

 目を引くのは、収容されていた元豪州軍軍医の故ローリー・リチャーズさんが残した手記「A Doctor's War」の一部だ。

 「……10月末、エネルギッシュなライフセーバー(水難救助員)のジム・ムレーンがアメーバ赤痢で死亡した。我々オーストラリアグループ全員の心は粉々に打ち砕かれた。彼はわずか23歳で命を終えてしまった」との一節は、厳しい環境での生活をうかがわせる。

 一方、「捕虜たちが赤十字からの救援物資を子供たちや親切にしてくれた民間人に分け与えた。子どもは初めてチョコレートを口にして、すっかり魅了された」などと、地元住民との交流も明かされている。

 旧日本軍は、日露戦争や第1次世界大戦などでは戦争捕虜を厚遇していたとされる。しかし、太平洋戦争期では一転し国際法を軽視。映画などでも繰り返し描かれる「捕虜を虐待する国家」へと変貌(へんぼう)してしまった。このような評価について、「庄内地域史研究所」の三原容子・元東北公益文科大教授による「考察」も掲載している。

 同書は庄内地方の八文字屋鶴岡店、みずほ八文字屋(酒田市)、戸田書店三川店、阿部久書店(鶴岡市)などで販売されている。(鵜沼照都)