◆ 美しすぎると言われて

 「その当時は、“重し”でしかなかったですね……」

 高校時代に女子野球の日本代表の候補に抜擢された加藤優さん。しかし、“美しすぎる女子野球選手”と呼ばれ、もてはやされることはティーンエイジャーの彼女には違和感のほうが大きかった。

 独り歩きしていくイメージ。「自分は無骨なタイプだったので、正反対の名前がついた感じがあって……。そういう葛藤はありました」と当時を振り返り、「もうSNSがあるような時代でしたが『ああいうものは読んじゃいけない』という知識もなく読んでしまいました。当時は色々とショックを受けましたね」といわれなき誹謗に心を痛めた。

 しかし、周りのチームメイトにも励まされながら、ただひたむきにプレーを続けると、一つの転機が訪れた。

「その当時の女子プロ野球選手たちと試合ができる大会が1つだけあったんです。高校3年生の時に初めてプロの選手と対戦して、ものすごくレベルが高いなということを肌で感じて。そこからプロ野球選手になりたいなと思いましたね」と上のステージへの挑戦への意欲が湧いてきた。

[caption id="attachment_420226" align="aligncenter" width="770"] ©Takehiko NOGUCHI[/caption]

 進むべく道は定まった。約2年間、社会人野球でスキルを磨き、晴れてプロ球団・埼玉アストライアに入団。

 しかし「すごく上手な選手がたくさんいらっしゃる中で、例えばテレビに出て宣伝するとなると、やっぱり私が出ることになってしまって……。プレーでも自分にまだ自信がなかったので、ストレスにもなりました」と、ここでも実力以外への注目が負担となった。

「全然自信がない時に、当時監督だった片平晋作さんに『女子野球界の宝だから』と言っていただいて。もちろん野球のこともたくさん教えていただきました」と今は亡き恩師の力添えもあり、実力に磨きをかけて名実ともに中心選手まで成長したことで、胸を張って“広告塔"の役目も担った。「3、4年目には結果も出せたので、私なりに頑張ったなという想いがありました。悔いなくプロ生活は終えられましたね」とやりきった思いとともに、スッキリとユニフォームを脱いだ。

[caption id="attachment_418193" align="aligncenter" width="770"] ©Takehiko NOGUCHI[/caption]

◆ 女子野球のために

 自身の引退に未練はなかったが、同じタイミングで女子プロ野球リーグが経営難に陥る。「19年のシーズン終わりでしたね。その年にタイトルを取ったような主力選手がどんどん戦力外になってしまって……」と選手の大量放出を招く事態に「いよいよ本物の女子プロ野球リーグじゃなくなってしまう」と心を痛め、危機感を抱いた。

 その想いは「その時は(女子プロ野球の)後釜を作らなきゃダメだという使命感を強く抱いていました」と即行動を開始。「NPBの横浜DeNAベイスターズに女子チームを作りませんかと提案して、実際に球団の中に入って一緒にチーム作りを進めていたのですが……ちょうどコロナも重なってしまって、その夢は叶いませんでした」と思い描いていたように事は進まなかった。


 ただ女子プロ野球のため、ひたむきにプレーしている後輩のため動き続けた彼女を、神様は見放さなかった。

「DeNAベイスターズにある子どもたちのための野球スクールで、コーチをやらせてもらうことになりました」と指導者の道へ足を踏み入れたことが、キャリアのターニングポイントとなった。

「コーチングスタッフとしてしっかりと運営に関われたことで、スクールの仕組みなどを直で勉強しながら、同時に他のコーチがどういう指導をしているのかというのを実際に見て、学ばせていただきました」と荒波翔氏や秦裕二氏など、NPBで活躍した元プロ野球選手たちの指導法を、間近で日々吸収し続けた。

 また自身は野手だったこともあり「ピッチャーは、キャッチボールのメニュー一つ取っても、私が今までやってこなかったような練習方法がありました。そういうことも子供たちの練習でメニューに組み組み込んでやっていたので、『これは結構怪我防止になる』とか、『私も小さい頃こういう練習方法を知りたかった』なと感じることもたくさんありましたね」と多角的なコーチングスキルを学んだ。

 すると「学んだトレーニングメニューを自分なりに抜粋して、子供たちにもやらせてみようかなと思うこともありましたね」と自主的にアレンジを加えていけるまでに成長。 「今までの経験を活かした仕事を、自分でできたらいいなと思い始めました」と5歳から始めた野球の経験を礎に生きていきたい、との新たな夢が芽生え始めた。

「しっかり定期的に同じ子供に教えることを初めて学べて、これだったら自分にも、小規模でも、できることがあるんじゃないかと思いました」と約2年間のベイスターズでの修行期間を経て独立を決意。「私がやるんだったら、女子専門の方がいいのかな」と、日本初となる女子選手だけをターゲットとした、新しい形の野球塾の設立に走り出した。

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取材=萩原孝弘
撮影=野口岳彦
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