春らしい別れと旅立ち

 俳優の阿部サダヲが主演したTBS系ドラマ「不適切にもほどがある!」が29日に最終回を迎えた。宮藤官九郎が脚本を担当したオリジナル作品。葛飾区立第六中学校のスパルタ体育教師でパワハラ、セクハラなど不適切な言動が多い野球部顧問の小川市郎(阿部)が、1986(昭和61)年から2024(令和6)年にタイムスリップし、コンプライアンス意識やポリティカルコレクトネス(ポリコレ)が渦巻く息苦しい社会でさまざまな騒動を巻き起こすというストーリーだった。

 最終回では、時空を移動するバスの最後の1往復が情感たっぷりに描かれ、登場人物が最後を惜しむシーンは最終回らしい、そして春らしい別れと旅立ちの甘酸っぱさにあふれていた。一方、クドカンらしい諧謔的な高揚感は最終回もてんこ盛りで、EBSテレビのリスクマネジメント部長・栗田(山本耕史)がエレキギターを片手に布袋寅泰のモノマネを披露したり、大学生役でサプライズ出演したヒップホップユニット・CreepyNutsのDJ松永とR-指定を昭和に連れて行き、第六中学の卒業式後の教室で同ドラマの主題歌「二度寝」をパフォーマンスさせたりした。

 ヒップホップを聴いたことがない生徒たちがやがてノリノリでダンスし始めるシーンは、1985年の大ヒット米映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でマイケル・J・フォックスが「ジョニー・B.グッド」をギター演奏して「新しい音楽だ」と盛り上がったシーンを想起させる。また、「寛容が肝要」と歌い踊るミュージカル風シーンは「東村山音頭」の再現のようで楽しかったが、最終回放送当日の29日は東村山市出身の志村けんさんの命日だった(2020年3月29日没。享年70)。昭和のお笑いをリードした志村さんへの追悼の念まで込められていたのには驚いた。

 最終回をめぐっては第1話以降、あちこちに張り巡らされた伏線が順次回収されると見込んでいた。市郎は燃料不足で最後の1往復となったタイムマシンバスに孫の渚(仲里依紗)と乗り込み昭和へ向かう。95年1月17日に発生した阪神淡路大震災で市郎と娘の純子(河合優実)は命を落とすという設定だが、最終回では直接的な生死には触れられず、勉強の途中でうたたねする純子の幸せそうな寝顔が印象的に描かれた。「タイムパラドックスなんか知ったものか。娘を救うのが親の役目だろう」。一郎のこの呟きどおりラストで大きなどんでん返しを見せられることになるが、その前に今回のドラマで主軸となったふたつの“パラドックス”を考えてみたい。

タイムパラドックス

 1つ目は、劇中で何度も言及された「タイムパラドックス」である。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」同様、過去や未来を操作すると歴史が変わってしまい「タイムパラドックス」が起きてしまうからタイムトラベラーは過去や未来を絶対に変えてはならない。そうだとすると、市郎と純子はやはり95年に亡くなってしまうのか。その結末を知りたかった視聴者にとってはモヤモヤが残った最終回だった。

 しかしながら、実際に視聴者はこのエンディングを見てどんな心境になっただろうか。不適切だった市郎は令和の社会ルールを学習し勤務先の中学に蔓延するセクハラ、パワハラを正そうとする。令和の世界を見た市郎と純子はそれぞれ変化を遂げ、不適切だった自己のふるまいを見つめ直して親子の絆を深めていく。そんな愛らしい市郎と純子の姿を見て「絶対に生きていてほしい」という願いがどんどん深まっていったのではないだろうか。クドカンの狙いはまさにここだろう。あえて父と娘の運命を明確にしないまま脚本を書き終えたのは、人間の存在そのものへの慈しみの感情を視聴者に抱いてもらいたかったからではないか。

 とはいえ、父と娘の運命は“超”の付く力業で回収できていた。昭和に戻り喫茶「SCANDAL」でトイレをのぞいた市郎はタイムスリップを可能とする新たなホールを発見。その中から2054年からやって来たというタイムマシン開発者の井上(小野武彦)が顔をのぞかせ、「タイムトンネルを発見しました。バスと違って好きな時代に行けるんです」と興奮しながら市郎に伝えるのだった。

 このシーンはクドカン脚本のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の最終回とよく似ている。アキとユイがトンネルの向こうに見える輝きに向かって駆けていくのだが、このトンネルが「不適切にもほどがある!」ではトイレの時空ホールに該当する。タイムトンネルを使って自由自在に時空を移動できる市郎と周囲の人々の希望の未来が示されたかっこうだ。純子の未来の夫となる犬島ゆずる(古田新太)が病院で「2024年、お父さんがタイムマシンで現れます」と繰り返し発言していた理由もこれで「腑に落ちる」というわけだ。

 さて、2つ目はこのドラマを評価するうえで結構、重要な論点となる。最終回でのミュージカル演出では「寛容が肝要」というメッセージが繰り返されたが、イギリスの哲学者カール・ポパーは「寛容のパラドックス」という理論を45年に著書『開かれた社会とその敵』で定義している。寛容な社会や組織は、さまざまな人々やアイデアを受け入れ、異なる視点や文化を尊重することで、社会的な調和や進歩を促進するが、この寛容さが極端になると、その社会や組織は自らの価値観や安定性を守る手段を失う。つまり、「寛容な社会は不寛容に不寛容であること」が求められるというのだ。

寛容のパラドックス

 昭和に戻った市郎が昭和の乱雑さを、令和に戻ったフェミニストの社会学者・向坂サカエ(吉田羊)が令和の息苦しさを訴えたのも、寛容と不寛容のバランスが大切というメッセージだ。それはセクハラ教頭の不寛容発言に飲み会ボイコットという不寛容で立ち向かった市郎の姿や、サカエの「寛容と甘えは違います」という台詞からもうかがえる。特に口うるさいコンプライアンス部長の栗田がテレビ局の組織防衛という面からは欠かせない存在であることも強調されていた。

 クドカンが描いた不寛容な社会は近年の重要なキーワードになっている。2017年に刊行され話題となった『不寛容社会』 (ワニブックスPLUS新書)で元国連専門機関職員の著者・谷本真由美さんは社会に不寛容が充満している理由について「自分以外の『誰か』のせいで、『自分の人生が侵されている』と感じている人が多くなってきている。こうしたストレスフルな空気の中で、政治家や芸能人を、ネット上で叩いてスカッとする日本人が増えているのではないか」(43頁)と考え、「日本人は心の持ち方を変えていく必要がある。価値観や世界観の違う人たちに寛容であること。大雑把に大胆に生きていけば他人のことは気にならなくなる」(203-7頁)と論じている。今回のクドカンのドラマはそのような不寛容さへの問題提起がベースにあるのだろう。

「タイムパラドックス」と「寛容のパラドックス」が巧妙に織り込まれた最終回。あまりにも意外な幕切れに唖然とする視聴者にクドカンはこう言うに違いない。「寛容が肝要です」と。

烏丸侑李(からすま・ゆり)
カルチャーコラムニスト。東京大学大学院修士課程修了(文学修士)、同博士課程単位取得満期退学。専攻は文化人類学、メディア比較論。首都圏の国立大と私立大での講義歴多数。

デイリー新潮編集部