4月27日、28日に国立競技場で開催されたライブ「Ado SPECIAL LIVE 2024 『心臓』」の音響に批判が殺到しているAdo。彼女はなぜたびたびネットニュースやSNSで批判の対象となってしまうのか――。ライターの冨士海ネコ氏が分析した。

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 国立競技場でのライブ音響でケチがついたAdoさん。「歌い手」として顔を出さずに「うっせぇわ」でメジャーデビューし、瞬く間に人気を博した。数々のタイアップや有名アーティストたちからの楽曲提供も多く、昨年は紅白にも出場。2月から初の海外ライブツアーも始まり大盛況だという。

 若き才能の誕生には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきものだが、それにしてもAdoさんに対する反発は度々ネットニュースを騒がせる。今回の国立競技場における音響問題を報じたYahoo!ニュースについたコメント数は、多いもので2000を超えていた。

 なぜ彼女がここまでたたかれるのか。それは「顔を見せない」というスタイルに対する不信感に根差しているところが大きいように見える。歌がうまいことは認めるが、本当に本人が歌っているかは分からない。楽曲の構造上、さまざまな加工が施されている部分もあるだろう。そういったさまざまな「疑惑」と、「うっせぇわ」の挑発的な歌詞や、がなるような歌唱が上塗りした印象から「世間知らずの甘えた若者」像の代表にされてしまっているのではないだろうか。

 Xを見る限り、来場者の声でそこまでAdoさん個人を責めるようなコメントは目立たない。音響には不満が残るものの、ライブそのものに参加できたことの喜びや、凝った演出とAdoさんの生歌唱に満足したという声の方が多い。けれどもネットニュース欄は真逆で、悪者探しが始まっている。本来ライブに向かない会場で金儲けに走った主催者、技量のない音響スタッフ、いやいや顔出しもしない歌手をありがたがるファンだって未熟……などに加えて、Adoさん本人に責任を問うような意見も少なくない。「お詫びなしの“幕引き”」と、アンチをあおるようなタイトルの記事に仕立てた報道もあった。

 最近の若者は打たれ弱い、かかってきた電話を取らない、仕事を選り好みしてすぐ辞める。「扱いづらいZ世代」という話題は、日々SNSやネットを騒がせるが、Adoさんに対してもそういうイメージを持たせたいかのようだ。

 国内外の大舞台に出るものの、素顔は明かさず、トラブルが起きたら開き直るだけじゃないか、といった一部の人が作り上げた「権利だけ主張して責任を果たさない甘えた若者」像に誘導されて、拳を振り上げる人たちの姿は少なくないように見受けられる。

小室哲哉も驚いた「見えなくても盛り上がる」ライブの意義 Adoのライブは「記憶よりも記録」型?

 建て替え後の国立競技場でライブを行ったのは2022年の矢沢永吉さんだけだというが、矢沢さんはくまなく音響チェックをしていた、というエピソードがまことしやかにささやかれている。だからアーティストを名乗るのなら音響チェックをするのが当然で、今までの慣習や常識をバカにしてるからこうなるんだ、と言いたげな、Adoさんへの批判に使われている。

 調べてみたが矢沢さんが「リハーサル時に音響や照明を確認」という情報はあるものの、どこまできめ細かくやっていたのかは分からないため、なんとも言えない。ただ、当時のライブ来場者の中にも、音響の不備を指摘する声はあったようだ。熱量の高さで知られる永ちゃんファンでさえ苦言を呈するのだから、歌手やスタッフの力量だけではどうにもならない構造上の問題が一番大きいのだろう。

 そもそも、矢沢さんのライブと比べることがナンセンスかもしれない。Adoさんはアーティストではなく「歌い手」と自称し、顔出しをしないのも「歌い手」文化にのっとっているという。作詞作曲をするわけでもなく、与えられた曲を超絶技巧で歌いこなすパフォーマーであり、そこには表情管理や生身ゆえのアクシデントは不要だ。ものすごく雑に言うと、「太鼓の達人」のような音楽ゲームでの得点と同様の「記録」が問われているのであって、挑む本人のルックスやパーソナリティーがどう見えるかという「記憶」は二の次なのではないだろうか。

 小室哲哉さんが爆笑問題のラジオにて、今回の騒動について「見えないのに盛り上がるんだ」と驚いていたが、それは「記録」より「記憶」型のライブをやってきたアーティストならではの意見だろう。もちろんAdoさんサイドも記憶に残るライブをしたい、という思いはあるだろうが、総じて受ける印象は「顔を出さずにどこまで大きなこと、新しいことがやれるのか」という記録更新志向である。技巧はすごいが心を打たないという批判は的外れで、むしろ技巧や演出のすごさで国内外の記録を塗り替えていくことに重きを置いているようにも思える。

ライブ後のコメントに見る「甘えている若者」どころか冷静すぎる自己分析 顔出しという最強カードを切るタイミングはいつ?

 通常のアーティストだったら、口先だけでも「自分の責任です」と謝ったのだろう。でもAdoさんは「歌い手」であり、大きなみこしに担がれた人形に過ぎないことを誰よりもよく自覚しているはずだ。だから謝罪をしないのは傲慢な「甘えた若者」だからではなく、むしろ客観的に自分の立ち位置を見ている賢さの表れではないだろうか。

 もしも今回、謝罪のために顔出しをするという選択をすれば、アンチの声を少しトーンダウンすることはできただろう。けれども顔出しという最強のカードを切るタイミングは、今じゃないと判断したのだろう。もっと何か大きな「記録」に関わる時だ、と見計らっているに違いない。

 今回の騒動に関して、Adoさんは「お客様の皆さまのお言葉、嬉しいこと、喜ばしいこと、勉強、糧にしなければいけないこと、しかと受け止めて、今後に活かしていただければと思います。」とSNSで投稿した。生身の姿をさらし、汗や涙にまみれながらパフォーマンスを見せるのとは違うやり方で、新しい「記録」を打ち立てるべく作戦を立てているところではないだろうか。いずれにせよ、ライブに行ってもいない人たちが、ネットニュースの意地悪なタイトルに踊らされてあれこれ言い合っているのは奇妙にも見えるが、「踊(おど)」というヒット曲を持つAdoさんならではの、ある意味すごい「記録」的状況なのだといえるのかもしれない。

冨士海ネコ(ライター)

デイリー新潮編集部