花岡と重なる山口判事

 朝ドラことNHK連続テレビ小説「虎に翼」にとって欠かせない人物だった花岡悟(岩田剛典)の餓死が、7日放送の第50回で明らかになった。1947年のことだ。花岡のモデルはやはり同年に餓死した佐賀県出身の山口良忠判事。山口判事の死がこの物語で描かれる意味を考える。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

 花岡が佐賀県出身であることが明かされたのは第18回。ヒロインの猪爪寅子(伊藤沙莉)と明律大法学部の同級生になり、一緒にハイキングに行き、崖から転落してケガをしたときだった。第19回では花岡自身が「いずれは故郷の佐賀で弁護士に……」と口にした。

 ほかの同級生の出身地が触れられぬ中、花岡の佐賀出身ばかりが強調された。山口判事の生涯を教え込まれた昭和世代は「花岡のモデルは山口判事ではないか」という思いがよぎった。山口判事は佐賀県が生んだ偉人の1人であり、地元の白石町には「山口良忠判事記念図書館」などがある。

 花岡の高等試験(現・司法試験)合格は1937年で、判事になったのは40年。一方、山口判事の合格は38年で判事任官は41年だった。1年ずれているものの、戦後は東京地裁の経済犯担当として食糧管理法(食管法)違反罪などを裁いていたのは同じ。

 また、母校は花岡が明治大をモデルとする明律大で、山口判事は京都帝大大学院だが、1947年に餓死したのは一緒である。

 食糧管理法では配給食糧以外は違法。しかし、実際にはヤミ米など配給以外の食糧を口にしなければ生きていけなかった。だから、誰もがヤミ市に通った。金があったら、何でも買えた。1946年だった第44回で寅子が焼き鳥を買ったのもヤミ市だ。

 もっとも、山口判事は違った。法を破った人間を罰する立場の自分が、ヤミ米などを食べていてはいけないとの信念を持ち、同年秋からヤミの食糧を一切口にしないようになる。そのうえ、配給食糧の大半を2人の男児に与えた。2人の子供が腹いっぱい食べたのを見届けたうえで、残りを自分と妻の矩子さんで食べた。それは汁ばかりの粥だった。

 当然、山口判事は体を壊す。1947年8月27日、東京地裁内の階段で倒れた。それでも同9月1日までは裁判を担当し続けた。「被告人100人を未決にするわけにはいかない」(山口判事)。凄まじいまでの責任感だった。

「悪法も法」を貫く

 同9月7日には心配した親族が白石町の実家に連れ戻し、療養に入ったものの、回復することはなかった。同10月11日に栄養失調による肺浸潤で死亡する。33歳の若さだった。医師は「極度の栄養失調」と診断した。矩子さんも体を壊しており、床に伏せていた。

 食管法は1942年に施行され、食糧の売買が自由に出来なくなった。同法が施行された当時の米の配給量は大人1人が1日当たり2合3勺(345グラム)。これが終戦直前の45年7月には2合1勺(315グラム)に減らされた。それが戦後も続いた。この量で健康に生きられるはずがないので、まともな法律ではなかった。

 それは山口判事も分かっていた。倒れたあと、ノートにこう書いている。

「食管法は悪法だ」。それでいて判事だから「自分はどれほど苦しくともヤミの買い出しなんかは絶対にやらない」と記した。

 山口判事は、古代ギリシャの哲学者・ソクラテスによる「悪法も法」という言葉を守ろうした。また、1980年に佐賀県教育委員会が作成した教育資料によると、生前は「私は正しい裁判官でありたい」と語っていた。

 一方、矩子さんはのちに「(山口判事を)理解し、ついていこう、と決心しました」と語っている(山形道文著『われ判事の職にあり』文藝春秋)

 山口判事の死は日本中に衝撃を与えた。同情や敬意を示す声が沸き上がった。27歳の女性は自宅のニワトリの産んだ卵を24個持って最高裁を訪れた。当時、卵は超高級品だった。

「これはヤミではありません。山口判事のように法を守るためにヤミをしない裁判官に差し上げてください」

 昭和世代の間では知られたエピソードだ。なお、この女性は2016年度上期の朝ドラ「とと姉ちゃん」でヒロインのモデルとなった『暮しの手帖』の創業者・大橋鎭子さんである。

 一方で山口判事には「法律至上主義の非常識な裁判官」などと批判する声もあった。当時の片山哲首相の妻・菊江氏も「夫婦の工夫が足りない」と苦言を呈し、物議を醸した。政府が批判されるのを避けたかったと見られた。

 しかし、多数派を占めたのは、山口判事に寄り添う声。小説家で思想家としても名高い高橋和巳氏は、その死について「庶民次元の法に対する感覚的崩壊を食い止めた」と評した。山口判事が命懸けで表した順法精神により、戦後混乱期の法律や司法関係者への強い不信感に歯止めが掛かったと考えた。

 山口判事の後輩はどう受け止めたのか。「虎に翼」を欠かさず観ている、元東京高裁部総括判事の木谷明弁護士(86)に聞いた。木谷氏は有罪率99.9%とされる刑事裁判で、無罪判決を30件以上も出した伝説の人である。

「『自分には到底まねのできそうもないことをされた』と、まず尊敬の念を抱いたのは、皆さんと同じです。毎日、食管法違反事件の被告人を裁く身になったら、自分も同じ心境になっただろうかとも思いますが、俗物である私には、それ以上の想像ができません。いずれにしても、被告人と同じ環境に身を置いて考えようとされた山口判事が素晴らしい方であったことは間違いありません」(木谷氏)

花岡の死が用意された理由

 この物語があえて花岡に死の道を用意した理由は、高橋氏の評と木谷氏の言葉に近いのではないか。この作品は法律や判事を「水源」と捉え、寅子はその水源を汚したり、濁したりしてはならないと考えている(第25回)。この物語からのメッセージでもある。山口判事をモデルとする花岡も同じ考えで、自らが水源を汚してはならぬと思ったのだ。体を張って水源を守ろうとした。

 では、どうして桂場は花岡に判事の適正がないと思ったのか。1938年だった第27回、裁判官になるための実務修習中だった花岡は、高等試験浪人中の寅子に対し、こう嘆いた。

「桂場さんに『君は裁判官向きじゃない』って言われたよ」(花岡)

 公正・中立の意識が薄かったり、不真面目だったりしたわけではないはず。桂場は花岡の線が細く、シャイな性格に危うさを感じたのではないか。

 花岡は寅子や桂場、司法省(現・法務省)民事局の久藤頼安(沢村一樹)より線が細く、シャイ。だから桂場は花岡が判事になると、法律や裁判に押し潰されてしまう恐れがあると感じたのだろう。

 実際、花岡には以前から線の細い部分があった。第1志望の東京帝大に落ちると、明律大に入った当初は自暴自棄になっていた。シャイなので第17回で寅子に早々と好意をほのめかしながら、愛の告白は最後まで出来なかった。

 1939年だった第32回、花岡は佐賀地裁に赴任することになる。寅子と一緒に行きたい意思を言外に示したが、口には出来なかった。

 寅子が高等試験(現・司法試験)に受かったばかりで、彼女から弁護士になる夢を奪うことになるからだ。その胸の内すら明かせず、黙って同郷の小高奈津子(古畑奈和)と婚約する(第33回)。

 シャイで生真面目だから、ヤミの食糧を口にしないと一旦決めると、窮状や辛苦を誰にも口にせず、突き進んでしまったのだろう。

 1947年春だった第48回と49回、司法省に勤務していた寅子と勤め先が東京地裁だった花岡は、どちらの職場にも近い日比谷公園(東京都千代田区)で再会する。久しぶりだったが、花岡の言葉には力がなく、衰えを感じさせた。

 寅子は、生活を考えると、司法省内で言いたいことが口にしづらく、周囲から以前と変わったと評されていると話す。これに対し、花岡はこう助言した。第49回だった。

「自分でどうなりたいか選ぶしかない。本当の自分を忘れないうちに」(花岡)

 1935年だった第19回の明律大時代、同級生の大庭梅子(平岩紙)から贈られた言葉である。むごい結末となってしまったが、花岡にとっては本当の自分はあくまで法に従うことだった。

 その死は寅子との再会から僅か約半年後である。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。

デイリー新潮編集部