4月13日にフジテレビ系で放送された、昨秋の月9ドラマのスペシャル版『PICU 小児集中治療室 スペシャル2024』に、気になる場面があった。

 医師の植野元(安田顕)が七尾乃亜(武田玲奈)という研修医に、セクハラで訴えられてしまったのである。理由は、運ばれてきた小児になにもできず落ち込んでいる七尾を励ましたくて、植野が昼食に誘ったこと。それから、患者を前に座り込んでいる七尾を見て、立てなくなっていると思い手を貸して立たせたことだった。女性を強引に食事に誘い、さらに体にまで触れたのが、ともにセクハラに当たるというのだ。

 それがセクハラだなんて荒唐無稽だ、と感じる人もいるだろう。だが、この場面に対しては、自分も似たような経験をした、という共感の声が、多数寄せられたという。

 私自身も共感した。私事だが、仕事先の女性にFacebookの友達申請をしたところ(理由は仕事がらみの情報を共有したかったからだが)、その女性の上司に、私からセクハラまがいのあつかいを受けたと伝えられてしまったことがある。このように、些細なことでもセクハラあつかいされるという嘆きは、周囲から頻繁に聞こえてくる。

 むろん、セクハラはそれが真実であるなら人権侵害であり、女性がセクハラから守られなければならないのは当然である。しかし、セクハラの定義は法律上、明確ではない。それだけに、このドラマにおける七尾のように、自分が仕事で思うように結果を出せなかった腹いせに、錦の御旗のようにセクハラを持ち出し、相手を屈服させるというケースも、ないとはいえないのが現状だ。

 そうなると結局、男性は女性に適切な指導どころか、アドバイスさえ迂闊にできないことになる。いや、すでに全国のさまざまな職場にそうした傾向がみられると聞く。それでは女性が社会的訓練を受ける機会が奪われ、別の意味での人権侵害につながるのではないか。そんな疑いさえ生じている。

ジェンダー・ギャップ解消の焦りがもたらす弊害

 男女共同参画社会基本法が施行されたのは1999年6月のことだった。つまり、もう四半世紀前も前から、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保」され、「男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受」できる社会の構築が志向されている。

 それにしては、日本は各国とくらべてジェンダー・ギャップが大きいと指摘される。スイスのコロニーに本部がある非営利団体「世界国際フォーラム」が、世界各国の性による格差の度合いをまとめた『グローバル・ジェンダー・ギャップ・レポート』によれば、2018年における日本のジェンダー・ギャップ指数は、世界146カ国のなかで125位という、惨憺たる順位である。

 このために、政治、経済、社会の各分野で、日本のジェンダー・ギャップを解消しようという焦りがみられるようだ。

 政治の分野では、2018年に「政治分野における男女共同参画推進法」が施行され、各政党に対し、男女の候補者数ができるだけ均等になるように求められた。たとえば、立憲民主党はこれに素早く反応し、「候補者・議員・党職員における女性比率を、2030年までのできるだけ早い時期に、少なくとも3割を超えることを目標とする」と定めた。

 そして、日本の国会議員における女性比率は、全体をみると衆議院10.3%、参議院26.7%、衆参両院16.0%なのに対し、立憲民主党の国会議員にかぎっては、衆議院13.7%、参議院44.7%、衆参両院22.6%であると、誇らしげに数字を示している(数字はいずれも2023年7月19日現在のもの)。

 しかし、こうして性急に表面の数字をそろえることばかり意識するから、本質的なジェンダー・ギャップがいつになっても解消しないのではないだろうか。

女性議員を無理に増やせば国家機能が低下するワケ

 国会議員の女性比率を3割超にするためになにが必要か。それは、国会議員になろうと志向する女性を増やすことに尽きる。

 むろん、国会議員になりたいと願い、意欲も能力も十分にありながら、女性であることを理由に、その道が閉ざされたり険しくなったりしているという事例があるなら、即刻、男女の差がなく国会議員をめざせるように改善する必要がある。しかし、そもそも国会議員になりたいと思う女性が増えていない段階で、議員の女性比率だけを増やせばどうなるか。意欲の点でも能力の点でも十分とはいえない議員が増えるだけである。

 そして、それはそのまま男性への差別につながる。仮に国会議員の志望者が1000人いるとし、内訳を男性900人、女性100人とする。そこから500人の候補者を選び、その3割は女性とすることとしよう。すると、どうなるか。男性は650人が落とされるのに対し、女性は全員を選んでもまだ足りず、さらに50人に志望者をどこかからかき集めなければならないことになる。

 女性のほうが際立って能力が高いのなら話は別だが、能力や意欲は男女で差がないとするなら、これは著しい女性優遇、すなわち男性差別となる。しかも、話は差別にとどまらない。意欲も能力もともなわない女性が大量に国会議員になることを意味する。立法府および国政の機能が著しく低下するのは避けられないだろう。

 要は、議員の男女比が、議員になりたいと思う人の男女比を超えてしまえば、本当の意味での男女の平等が守られないばかりか、日本の国家機能の低下につながる。だから、裾野を広げる、すなわち議員なりたいと思う女性の数を増やすことでしか、ジェンダー・ギャップを本質的に解消することはできないはずである。

 2018年に東京医科大学で、入試における女子差別が発覚。その後、順天堂大や日本大など9大学で同様の「不適切」な入試が行われていたことがわかり、社会問題化した。その際、問題が指摘された私大への私学助成金はカットされ、差別を防ぐための具体的なルールがつくられるなどした。

 こうして医学部入試における女性差別が解消したのはいい。だが、女性の議員志望者が必ずしも多くない現状において、女性国会議員を性急に増やそうとすれば、女性には下駄を履かせて「合格」させる以外に方法はない。それは、医学部入試で女性が差別されていたのと同じ方法で、男性が差別されることにほかならない。

必要なのは数をそろえるのではなく裾野を改革すること

 そして今春は、大学入試においても正々堂々と、同様の男性差別が行われた。東京工業大学や金沢大学など10大学が女子枠を新設。すでに採用していた大学をふくめると、15の国公立大学で女子枠がつくられたのである。

 一般入試、つまり普通の筆記試験で受験する場合は、男女の差はない。だが、学校推薦や総合型選抜に、女子しか受けられない枠がもうけられた。当然だが、女子枠ができた分、男女が平等に選考される枠は減り、結果として男性は合格しにくく、女性は合格しやすくなった。これは大学が公式にもうけた制度なので問題視されていないが、数年前の医学部入試の不正問題と、いったいどこが違うというのか。

 仮に、各大学が男性枠を新設したら、猛批判を浴びるだろう。しかし、女性枠なら許される。

 男女共同参画社会が目指され、内閣府の男女共同参画局は「男性も女性もあらゆる分野で活躍できる社会」を標榜し、2005年から理工系分野で女子の受験生を増やすための「リコチャレ(理工チャレンジ)」を実施してきた。にもかかわらず、経済協力開発機構(OECD)の調査では、2021年に理工系の大学などを卒業または修了した女性の割合は、加盟38国中、日本がいちばん低かったという。

 その焦りもあって、国公立大学の理工系学部が次々と女子枠をもうけているのだが、前述した医学部の不正とは逆に、これでは男子学生が浮かばれない。ひいては、各大学における学力の水準低下にもつながる。

 理工系女子を増やす。それは必要なことに違いないが、大学入試で女子に下駄を履かせるのは本末転倒である。それを担うのは、小学校(あるいは就学前教育)から高等学校までのはずで、そこで理工系分野への興味を喚起し、同時に、家庭における「女の子なのだから」という意識を解消する。そうして裾野を変えることでしか、ジェンダー・ギャップは解消しない。

 日本に関して、各調査でジェンダー・ギャップが大きいという結果が出るのは、裾野に目を向けていないからだろう。裾野において、男女が対等にものを考えるようになることでしか、ジェンダー・ギャップは解消されないはずだ。

 冒頭でとりあげたセクハラ問題も同様である。男女が対等であることよりも、男性から女性を守ることに力点が置かれた結果、男性が守らないことになっている。ひいては男性が女性に遠慮しすぎて、当たり前の指導さえ受けられないなど、不利益が女性にもおよぶ結果を生んでいる。

 男女がそれぞれの差異を認め、たがいにそれを尊重したうえで、対等に接することができる環境づくり。そこをおろそかにし続けるかぎり、冒頭に記した植野医師のような被害者は、今後も増え続けるはずである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部