「シベリアの密林からやって来た未知の怪物」

 いよいよゴールデンウィークが始まるが、今から63年前のちょうどこの時期、プロレスの、それも試合ではなく、パフォーマンスだけで、1万人以上を集めたイベントがあった。それが怪物レスラー、グレート・アントニオによる、バス引っ張りである。

 バスとはもちろん、道路を走っているあのバスのことで、これを人力で引っ張って動かす、それも4台を連結させるという、今では信じがたい、驚きの見世物であった。

 1961年4月28日(金)、場所は東京・港区の神宮外苑にある聖徳記念絵画館前の広場。主役のプロレスラー、グレート・アントニオは、「シベリアの密林からやって来た未知の怪物」、もしくは「密林王」の異名を誇っていた。

 実際、観て見れば、195センチ、160キロの巨体に、髪もヒゲも胸まで伸びている風采、赤と黒のチェック柄の上着は、彼が幼い頃に従事していた木こりを思わせ、まさに「密林王」の呼称そのものだった。実際の生まれはユーゴスラビアだったが、住んでいたのは国土の森林率が約4割のカナダで、この時、招聘した日本プロレスも、彼をリーグ戦の「カナダ代表」としていた。

 日本プロレスのトップだった力道山が、彼が地元のモントリオールの広場で、バス3台を引っ張っている写真をアメリカのプロレス雑誌「レスリング・レビュー」で目にし、「こいつは面白い」と来日させることになった。アントニオ自身が言うには、ニューヨークでバス5台を引っ張ったこともあり、また、列車を引っ張った際には、ギネスブックに認定されたという。もともとは、サーカスでそういった力を披露する、“カーニバル・レスラー”だった。

 パフォーマンス前日の27日午後10時半に羽田空港に到着すると、トレードマークである、5メートル超の鎖を振り回すだけでなく、ロビーの長椅子や灰皿をひっくり返してエキサイトし、噂に違わぬ野獣ぶりを披露した。

 イベント当日の広場には1万人を超える群衆が集まった。用意されたバスは、当時の日本プロレスのスポンサーだった三菱電機のマークが入った観光用の大型バスで、重さは8トン。こちらを先ずは3台繋げ、しかも先頭車両には、当時の日本プロレスと昵懇だったスポーツニッポンが特別に招待した子供たち50人が乗っていた。1人20キロとすれば、これだけで1トンであり、バス3台も入れれば、計25トンである。しかも、進む道はやや、上に傾斜していた。アントニオは先頭の車両のバンパーに縄を二重にかけ、そこから鎖をつなぎ、更にロープを巻き付けて肩にかけた。そして、引っ張り始めた。

その活躍で最多動員を記録

 だが、バスはビクともしなかった。

 2度目も3度目も「引っ張れー!」との掛け声が上がる。力道山も固唾を飲んで見守りつつ、アントニオのマネージャーのグレート東郷に声をかける。「大丈夫なのか?」。

 そして顔を真っ赤にし、滝のように汗を流しつつ、アントニオが体を斜めにした4度目、バスはゆっくりと動き始めた。「うぉぉぉーっ!」1万人を超えるギャラリーから大歓声が上がった。バスの中からも、子どもたちの歓喜の歓声が上がった。

 すると、続いてアントニオ側は、もう1台バスを連結した。計4台の牽引だ。いざチャレンジすると、更なる大歓声が沸いた。こちらは3台の時よりスムーズに進んだのである。「3台の時は、バスが直線に並んでなかったから、整列し直した」と、グレート東郷は説明した。

 これで、まさに日本列島は、“アントニオ・フィーバー”に。先ずこの夜、台東体育館で開かれていた、ミゼット・レスラーを中心とする「小人国プロレス大会」で、アントニオが乱入してひと暴れ。明らかにサイズの違うメンバーの中にアントニオを投入することで、怪物ぶりを際立たせた。試合は主に、アントニオvs若手や中堅勢と、1vs3といったハンディキャップマッチだった。

 スポーツ紙、特にスポーツニッポンは連日、1面で報道した。試合のない日は、その大食漢ぶりや、驚く飲食店の店主の声を仔細にレポートした。

 バスを引っ張った9日後の5月7日(日)、奈良・あやめ池公園大会には、なんと3万5000人もの観客が集まった。

取材記者が明かした意外な事実

 それにしても、大型バスを4台引っ張るなど、普通では考えられない。そんなことが可能なのだろうか?

 筆者の親族が東京・大田区にあった力道山の自宅の近くに住んでいたこともあり、当時を知る記者に会ったことがある。スポーツ紙の記者だったM氏は、意外な事実を明かしてくれた。

「力道山がねぇ、バスが一向に動かないことに、凄く怒ったんだよねえ。そしたらバスが動き始めた。で、私がふと、先頭の車両を観ると、運転席に人がいるんだね。おかしいな、と思った。最初、観た時は、いなかった気がしたからね」

“あくまで推測だけど”とした上で、M氏はこう語った。

「エンジンをかけてあげたとか、進み易く便宜をはかってあげたんじゃないかなあ」

 この時の力道山自身の、こんな発言も残っている。

〈あのとき私は条件のよい下り坂を選んではと彼にいったのだが“自分は上り坂であろうと下り坂であろうと、そんなことは問題ではない。大勢のファンの前で全力を出して引っぱって見せる”と答えた。その気持ちは実に立派だと思った〉(「スポーツニッポン」1961年5月16日付)

 しかし、アントニオは力道山がトップを務めた日本プロレスに、2度と呼ばれることはなかった。理由は、マネージャーのグレート東郷が、彼の羽田空港での初登場時に評していた言葉にあった。

「彼は少し頭が弱いので……」

 実は最初の羽田空港での大暴れも、仕込み済みではなく、アントニオ自身が勝手におこなったものだった。「人が多くいて、カメラのフラッシュもあったので、暴れなければと思ったようだ」(グレート東郷)。前出のM氏は語る。

「他の選手からは、嫌われてましたね。というのは、彼は試合前、必ず散歩をするんですが、帰って来ると、自分が大きく載ってる新聞を携えてるんです。それで言うには、『俺のお陰で客が入ってるんだ』と」

 こうした言動が元で、カール・クラウザー(後のカール・ゴッチ)やミスターX(ビル・ミラー)に私的な制裁を食らわされたことは、プロレス・ファンの間では知られた話だ。

絵本になった「未知の怪物」

 その後、アントニオは1977年、新日本プロレスに登場。10月28日に開幕する年末シリーズの開幕戦に突然現れたが、実際に試合に出始めたのは11月18日からだった

「観光ビザで入国しててね。それをワーキングビザに切り換えるのに手間取って」とは、当時のフロント、新間寿氏から聞いた話だが、そのまさにその18日、アントニオ猪木との一騎打ちが正式発表された。日時、場所はシリーズ最終戦となる、12月8日の蔵前国技館大会だった。

 既にこの時、アントニオは52歳となっていたが、開幕から日本に居続けたそのパブリシティ効果は絶大だった。11月3日には銀座の歩行者天国に現れ、松屋デパート前に設置された机に座り、大食漢ぶりを披露。そのメニューの一部を披露すれば、「若鶏の丸焼き10羽、子牛のバーベキュー10本、レタス4個」etc……11月20日の午後1時半からは、新日本プロレスの常宿である京王プラザホテル前でバス引っ張りパフォーマンスが披露されることとなり、4000人の見物客が集まった。

 もっとも、道交法などを理由に中止に。やむなく、アントニオが、他にバスを引ける場所を探し歩くと、ギャラリーもそれについて移動するという珍しい光景が見られた。猪木は一騎打ち決定直後から、「二度と日本に来られないようにする。3分以内にケリをつける」と発言。これに、大会の主催者である東京スポーツが紙面で、「どちらが何分で勝つか?」というクイズで回答を公募した。

 結果は、猪木が容赦ないシュートファイトを展開。うつ伏せになったアントニオの顔面を蹴り上げ、3分49秒、KO勝ち。アントニオの鼻は骨折した。後に、このシリーズでもアントニオの横暴が過ぎ、「(猪木との試合に)天皇を呼べ!」などと要求していたことも明らかになった。猪木は試合後、こうコメントした。

「ストロング・スタイルの強さを骨の髄まで味わわせ、徹底的にやった」

 アントニオは2003年に死去。2014年、筆者が手伝っていたプロレス・ムックの編集作業で、彼の元マネージャーへの取材が実現した。そこで猪木と戦った時には健忘症がかなり進行していたことが明かされると同時に、意外にもこんな証言を得た。

「とにかく、優しい人でした。相手をやっつけるとか、そういう気持ちは無かったんじゃないかな」

 同じ年、母国カナダの出版社から、彼を主人公にした絵本が出版された(「Le Grand Antonio」)。見返しには、バスや列車が描かれ、中には大量の肉を食べる様子やバスを引っ張る姿が描かれているがファイト・シーンもあり、そこにはフランス語で、こんな意味のことが書かれている。

「彼と戦うなんて愚かなことです。彼は世界中で闘います。日本の王者とも……。10人まとめてでも闘います!」

 その後に子供がその髪に楽しげにブラ下がる姿が描かれ、こんな言葉が続く。

「よく子どもたちに囲まれ、しがみつかれています。まるで人間の乗り物なのです」

 日本で初めて引っ張ったバスに乗っていた子供たちは、東京・板橋の施設から招待された肢体不自由児たちだったと、当時報道されている。その夜、乱入した大会の合間、アントニオがミゼット・レスラーたちと楽しそうに歓談する姿も目撃されていた。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。シナリオライターとして、故・田村孟氏に師事。フジテレビ「カルトQ〜プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)など。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。

デイリー新潮編集部