日本統治下の朝鮮・咸鏡南道洪原郡(現在の北朝鮮に含まれる)に生まれ、日本で力士となった力道山。1950年の引退後はプロレスに転向し、日本プロレスを設立するなど「日本プロレス界の父」として絶大な人気を誇った。だが1963年12月、東京・赤坂のナイトクラブで暴力団員と喧嘩になり、腹を刺されて入院。1週間後に腹膜炎で死去した。

 力道山の若すぎた死から約30年後、遺品のゴルフクラブが海を渡った。生前の力道山は自身の出自を隠しており、公に報じられたのは1963年1月のこと。だがそれまでに一度だけ帰国しており、その際に娘をもうけていたという。遺品のゴルフクラブはこの娘に渡されたのだ。元の所有者は元中日ドラゴンズの森徹。前編では森徹が力道山との出会いやその後の絆などについて語る。

(前後編記事の前編・「新潮45」2011年10月号掲載「現代史発掘 北朝鮮に渡った力道山のゴルフクラブ」をもとに再構成しました。文中の役職、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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遺品の持ち主は元中日のホームランバッター

【平壌8日共同】朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問中の猪木寛至参院議員(アントニオ猪木、スポーツ平和党)は七日、平壌の人民文化宮殿で、プロレスの恩師である故力道山(本名・金信洛)の長女、金英淑さん(52)と会い、力道山の遺品のゴルフクラブセットを手渡し、来年一月の訪日を招請した。対面では、金英淑さんの夫の朴明哲国家体育委員長や、金夫妻の三人の子供も同席。金英淑さんが「私は幼い時に父と別れ、父の具体的な姿を知りません。猪木先生の知っている父の姿を教えてください」と述べた。

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 このニュースが配信されたのは1994年9月。その翌年4月、アントニオ猪木は平壌で、2日間で38万人を集めたいわゆる「平和の祭典」を開催し、大成功をおさめた。

 かつて一世を風靡したケニースミスのアイアンセット。ヘッドの部分にローマ字で「RIKIDOZAN」と彫られた、カスタムメイドの最高級品。これが北朝鮮側を懐柔させたのは想像に難くない。

 遺品の持ち主だったのは、森徹という元中日ドラゴンズのホームランバッターである。長嶋茂雄と同期で、入団2年目に本塁打王と打点王のタイトルを取った。現在、全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)の理事長を務めている。

 本塁打王とアントニオ猪木、北朝鮮にいる娘の手に渡った力道山のゴルフクラブ。その不思議な物語を、森徹本人から聞いたのは、東日本大震災の少し前のことだ。

ドライバーはジャイアント馬場に

「最初はワンセットあったんだ。ドライバーはジャイアント馬場にあげて、スプーン(3番ウッド)は豊登(元大相撲力士・プロレスラー)にやった。4番ウッドはうちの次男坊に使わせていたら、無くなっちゃった。どこかに紛れ込んだのか、盗まれたのか。アイアンは2番から9番まであって、9番は木にぶつけて折ってしまった。猪木に渡したのは、3番から8番アイアンまでの6本だ」

 ちなみに2番アイアンは最近まであって、某医大の救命救急センターで主任教授だった先生に、還暦祝いにプレゼントした。ピッチングとサンドウェッジはまだ手元にある。

「ウェッジ、重くてフェースが厚いけれど、バンカーからよく出るから気に入って使っている。そんなわけで、ワンセットあったものがバラバラになってしまった。もし全部揃っていたら、今ごろかなりの値段が付くんじゃないかな」

 力道山の趣味はゴルフと狩猟だった。とくにゴルフには熱中し、暇があればゴルフ場に出かけ、腕力にものを言わせて糸巻きボールを豪快に引っぱたいていたという。

 歴史の中の小さなエピソード。けれど掘り起こせば、語られることのなかった物語が紡ぎ出される。その発端は、森徹自身の幼き日の記憶から始まる。

少年力士・力道山

 森徹と力道山が出会ったのは戦前の満州。彼の母親が経営していた料理屋「万里」に、相撲の巡業で来ていた力道山が出入りしていたのがきっかけだった。正確に言えば、母親が、“褌かつぎ”時代の若い力道山を哀れんで、なにかと面倒を見てやっていたのだ。

 母親、森信(のぶ)は女傑である。

 明治32年、函館の海産物問屋の一人娘として生まれ、結婚後すぐに夫と死別、叔父を頼って樺太に渡った。叔父の料理屋で働きながら、製材業で一財産を築く。満州事変が勃発すると、砲火の下をくぐって北京に乗り込み、大邸宅を買い取って料理屋を開業した。

 やがて「万里」は、軍の幹部たちが足繁く通う有名な店となり、使用人や芸者の数は数百人に及んだという。“マレーの虎”山下奉文が訪れたこともある。天津や上海に支店を出すなど事業は順調で、陸軍や海軍に軍用機を献納したという逸話も残っている。

柔道好きな少年と育んだ絆

 森徹は、昭和10年、満州の熱河省に日本の初代警察署長として赴任した、信の2番目の夫との間に生まれた。柔道が好きな少年だった。歳の離れた兄が1人いたが、満州医科大学へ進み家を出ていた。力道山は、森徹少年を肩車して場所に出かけ、取組が終わると一緒に家に戻って遊んでくれた。

「力道山はまだ10代で、親元を離れて相揆の世界に入ったばかり。苦労していたから、お袋に可愛がられて嬉しかったんだろうね。お袋を、“お母さん、お母さん”と呼んでいた。ご飯を食べさせてもらったり、よれよれの浴衣を繕ってもらったり。うちに来ているときが、いちばん心が和む時間だったんじゃないかな」

 森徹は、力道山が北朝鮮出身であることを知らなかった。

「発音に少しおかしなところがあって、舌足らずみたいな話し方をする。そんな話を、当時母親としたことを覚えているが、あまり気にもしなかった」

 と回想する。

プロレスラー転向後に再会

 やがて終戦を迎え、それと同時に森信の“帝国”も滅んだ。料理屋ごと財産を没収され、森親子は文字通り裸一貫で日本に帰国した。父親とは死に別れ、兄も戦死していた。

 帰国直後、京都の知り合いに預けられていた時、森徹は巡業に来た力道山に会っている。しかし声をかけることができなかった。

「八坂神社のそばだったな。会いたくてね、土俵を見に行ったよ。目の前を通っていったけれど、言葉をかけられなかった。胸がいっぱいになっちゃって」

 本格的な再会は、森徹が早稲田大学に進学し、野球部のレギュラーになってからだ。すでに力道山は相撲界を引退し、プロレスラーに転向、1953年に始まったテレビ放送を背景に、国民的な英雄になっていた。眩いばかりのスーパースター。レスラーになりたいという相撲部の先輩を連れ、やや気後れしながら、力道山の道場を訪れた。

 力道山は気さくに応対してくれた。学生服姿の森を見て、

「徹ちゃんか? いやあ大きくなった。いま何やってんだ?」
「早稲田で野球をやっています」
「ああ、早稲田の森というのは、徹ちゃんのことだったのか」

 そんな言葉が交わされた。

力道山の交友関係は華やかだった

 力道山は野球が好きで、豪快なホームランで神宮を沸かせていた森の名前を知っていた。それが幼い日に遊んであげた子と結びついていなかったのだ。それ以降、2人の交友関係は、力道山が亡くなる日まで続くことになる。

 プロ野球選手になった森徹は、東京での試合が終わると、赤坂にあるクラブ・リキに通うようになった。しょっちゅう電話がかかってきて、飲みに連れ出された。

「『今日、かわいい女優さんが来るんだ、出て来いよ』とか言ってね。ものすごい照れ屋だったから、1人で会えないんだ。あるいは1人でいるのが淋しいから、『ステーキでも食いに行くか』とか。2人の間に、とくに話はないんだよ。ただ黙々と食って、黙々と飲む」

 時代は高度成長期にさしかかる頃、力道山の交友関係は華やかだった。年末、力道山の家で恒例の餅つきがあった。芸能人やスポーツ選手が集い、その中には石原裕次郎もいた。

「裕次郎が、力さんのベンツ300SLを欲しがって、売ってあげたことがあった。カモメの翼みたいにドアが上に開くガルウィングの高級車。力さんと一緒にそのベンツに乗って裕次郎の新居まで届けた思い出もある」

出自を語らぬヒーローとともに

 力道山は生前、出自をあきらかにしなかった。国民のほとんどが、彼は日本人であると思っていた。なにしろ、憎きアメリカ人をやっつける正義のヒーローなのだから。前述したように、親しかった森徹にも何も話していなかった。

 力道山の故郷は、朝鮮半島の咸鏡南道洪原郡(現北朝鮮)である。本名は金信洛。6人兄弟の末っ子として生まれた。生まれつき体が頑強で、兄とともに朝鮮相撲で名を上げた。

 信格が10代半ばの頃、この地を訪れた日本の相撲関係者が彼に目をつけ二所ノ関部屋にスカウトする。彼は故郷を離れ、日本に渡る決心をした。やがてその関係者、長崎県大村市の百田家の養子となり、百田光浩と名乗った。

 入門後、一度だけ故郷に帰ったことがある。そのときに娘(金英淑)をもうけたという。だがそれ以後、力道山が故郷に帰ることは二度となかった。

 晩年、招かれて韓国を訪問したときのこと。このとき力道山は国境の板門店で上半身裸になり、北の祖国に向けて雄叫びを上げたという。

 そんなことも、森徹は力道山亡き後に初めて知ったという。

「故郷を離れて日本でヒーローになった。常に強くなければいけないという精神的な負担は、誰よりも強かったと思う。絶対に弱いところは見せられない。常にスーパーマンじゃなきゃいけない。だから酒の飲み方にしても、ちびちびとは飲めなかった」

いつまでも力道山を息子のように

 酒についての武勇伝は数多い。酒を飲むと人が変わる。けれど森徹はいっしょにいて、不快に思ったことは一度もなかった。

 日本で唯一、頭があがらなかったのが、森信だった。国民的な英雄になっても、信だけはいつまでも力道山を息子のように扱った。

「お袋も気が強い人だったから、力道山といえども全然遠慮しない。力さんが朝帰りして、奥さんに辛くあたったとき、“お前、今頃帰ってきて、なに生意気なこと言ってんだ”と、飛び上がって引っばたいたこともある。お袋には何を言われても絶対服従だった」

 そんなときは後から森徹のところへ電話がある。

「お母さん、まだ怒っているのか」
「カンカンだよ」
「弱ったな。お前、うまくやっておいてくれよ」

 そんなやり取りもあった。

 野球好きの力道山が、中日球場へ練習中の森徹を訪ねてきて、「ホームランを打たせろ」と言ったことがある。森徹が投げてやったが、なかなか打てない。負けず嫌いなので、ホームランが出るまで力任せにバットを振り回し、やっと一本スタンドに入った。

 もともと柔道少年で有段者の森徹は、柔道着を身にまとえば、力道山にも勝てた。

「裸では勝てないけど、柔道着を着ると俺の方が強いんだ。一度柔道着を着て、大外で一本投げ飛ばしたことがある。あのときは本気で怒っていたね。『オレにまともに向かってきやがって、大した野郎だ』なんて負け惜しみを言って」

死化粧を施した森の母親

 森徹がチームの移籍をめぐって揉めたときは、後見人として力道山が駆け回ってくれた。クラブ・リキで飲んでいると、力道山が汗をかきながら戻ってきて、

「オレがこんなに苦労しているのに、お前はのんびり酒食らって何やってんだ」
「おれだって好きで飲んでるわけじゃない」

 と喧嘩になった。このとき初めて空手チョップが森徹の胸に炸裂した。

「結局、客がいなくなった後、また2人で飲みなおした。人がいるときは派手にやる。人がいなくなると大人しくなる。根っからのショーマンだったんだよ」

 そんな力道山が刺されたのは1963年12月8日。場所は赤坂のナイトクラブ、ニューラテンクォーター。暴力団のチンピラに絡まれての出来事だった。一週間後、腹膜炎を発症し、山王病院で死亡する。

 森徹は合宿先の伊豆で、力道山が危ないという知らせを聞いた。夜、車を飛ばして駆けつけた。病室に入ると、母親の信が死化粧を施していた。腕に触るとまだ温かかった。

「なんともいえない気持ちだった。お袋が泣いていて……。いまでもその光景は鮮明に覚えているよ」

 それから約30年後のある日、森徹は、形見分けされた力道山のゴルフクラブの行方を尋ねられた。それが冒頭の話へと続くのだ。

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 ゴルフクラブの行方を尋ねてきたのはアントニオ猪木だった。猪木は一体なぜ、力道山の遺品を北朝鮮に届けたのか。後編では猪木本人が登場し、「師匠」力道山を憎んでいた若き日、そんな恨みが消えたある出来事、北朝鮮訪問時の思い出などを赤裸々に明かす。

後編【「ずっと殴られ、罵倒され続けていたが…」アントニオ猪木が「力道山のアイアンセット」を携えて北朝鮮を訪問した本当の理由】へつづく

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部