窓の外から怒鳴り声のようなものが聞こえてきて、美香は目を覚ます。

カーテンの隙間から外をのぞくと、既に高く上りつつある太陽の光が差し込んで目をくらませる。けれど目はすぐに光に慣れ、部屋に入り込んだ目の前の歩道で上司らしきサラリーマンが部下らしき男をしかっているのが見えた。

「どっちもバカね」

美香はカーテンを閉めてリビングに向かい、お気に入りのアロマキャンドルに火をつけ、コーヒーを入れる。美香のいつものルーティンだった。

時刻は11時すこし前。

今日は早起き。美香はそう自分を褒める。コーヒーを飲みながら、テレビを見る。このまま1日を終えるのはもったいない。LINEの友達欄をザッピングしながら、今日は誰に声をかけようとかと考える。

今年で47歳になる美香は学生時代に1週間ほどやった派遣アルバイトを除けば仕事をしたことがなかった。

しかし20年以上無職でも、美香は金に困ったことがない。理由は美香の両親が残した莫大(ばくだい)な遺産だ。

この家もその1つ。

美香の父親は会社を経営していて、母は専業主婦だった。美香が大学3年のとき、結婚記念日に旅行に行った両親は交通事故に巻き込まれ亡くなった。

当然、美香だって悲しかった。葬儀の日はまともに立っていることすらできず、手が震えて骨だってろくに拾うことができなかった。しかしその悲しみを埋めて余りあるかのような遺産を手にすることになる。

父の財産、事故相手からの慰謝料、保険金。

その日から大学にも行かず、就活もせず、ただただ遊ぶだけの生活を20年以上続けている。

当然、この生活が終わることなど美香は考えていなかった。

マッチングアプリで出会った20歳以上年下の男性

夕方になり、美香は鼻歌を歌いながらメイクを始める。

今日は凌久と会う日だった。凌久は24歳で役者志望。毎日、稽古とオーディションを受ける日々を送っていた。

凌久とはマッチングアプリで出会ってから、週に2度は会うようにしている。ミシュラン常連の有名なシェフが作るフレンチへ連れて行き、誰もが憧れる高級ブランドのコートやスーツを買い与えた。

美香には他にも同様の男が数人いるが、その中でも凌久が1番のお気に入りだった。

予約していたイタリアンにやってきた凌久は落ち着かないように辺りをキョロキョロしている。

「どうかしたの?」

「いや、こういうお店には美香さんと以外で来ることがまずないので。いつまでたっても慣れないんですよ」

「そんなんじゃダメよ。あなたは俳優で売れるんだから、今のうちからこういうお店に慣れておかないと」

美香の言葉に、凌久は背筋を伸ばす。凌久が今日着ているジャケットも、つい先月に美香が買い与えたものだ。美香の見立ては完璧で、動かず黙って座っていればきれいな顔立ちも相まって美術品のようにすら見える。

「どうオーディションは? 順調?」

「いえ、それが、難しいですね」

落ち込んだ凌久の顔を見て、悲しいような安堵のような複雑な気持ちになる。

「凌久を落とすなんてその面接の人は見る目ないのね」

「いや、それよりもやっぱり大手事務所に所属しないと厳しいっすね。特にテレビや映画はそういうのがないと……」

「じゃあ、所属になればいいじゃない」

凌久は苦笑いを浮かべる。

「そう、ですね。そういうのもやっていきたいんですけど、公演もあるし、バイトもあるしなかなか時間的に厳しい部分はありますから……」

「いろいろと大変なのね……」

貧乏人は、とは言わなかった。代わりにエルメスのバッグから小包を取り出して凌久へと渡す。

「それじゃこれ、あなたにあげるわ」

「え、これって……」

「良い時計でしょ。カルティエよ。私も好きだからおそろいでどうかなって思って」

「あ、ありがとうございます!」

凌久のその笑顔を見ると、美香もうれしくなる。

凌久は他の男とは違う。夢を追っていて、真面目で、そして大学時代に好きだった男にそっくりなのだ。

かつて相手にされなかった男が目の前にいるようで、美香は笑みをこぼす。

友人からの忠告

「へえ、そうなんだ」

興味なさそうに摩耶はコーヒーを飲んだ。凌久の話をしているのだが、摩耶は愛想のない反応を繰り返していた。

摩耶は大学時代の友人で、27歳で結婚し、2人の子供を育てている。旦那は商社で働いているらしいのだが、コロナによる不況のあおりを受けて年々給料が減っているらしく摩耶も最近になってパートを始めたらしい。

そんな近況に美香は内心では優越感に浸る。金や家族のことを考えながらあくせく暮らすのもそれはそれで悪くなそうだが。

「その時計っていくらするものなの?」

「60万くらい」

美香の言葉を聞き、摩耶の口がへの字になる。

「あんたさ、もうちょっとマシな使い方をしたほうがいいわよ」

「良いのよ別に」

「働かないにしても、ちゃんと投資して増やすとか何かしないと。いざっていうときに困るのは、自分なんだよ」

摩耶のお節介を、美香は鼻で笑う。

「そんなときがないもの」

「お金はもっと大事にしないと」

「あなたはね。私は腐るほどあるんだから、別に大事になんてする必要がないの。それに欲しいものなんて何もないんだから、人のために使うのが良いのよ」

美香の言葉と態度に摩耶はため息をつく。

「……その男さ、本当に大丈夫なの?」

摩耶の心配も美香には嫉妬にしか聞こえない。良い男と関係を持てない女の遠ぼえ。そんな気持ちを隠しながら、美香は笑顔で「あの子は良い子よ」と返した。

燃え盛る部屋の中で

こんな暮らしをしていると、毎日が退屈の連続だ。心が動くことなんてめったにない。

しかしこの日はそれがあった。凌久がCM出演の最終オーディションに進んだと言ってきた。こんなことは今までになかった。

今度お祝いをしなくちゃねと連絡し、美香は買い温めておいたワインを開けた。そしてアロマキャンドルをつけ、お気に入りの音楽を流しながらワインを楽しんだ。

 

……焦げ臭い。

その臭いで意識が戻る。

焦点はまだ定まらないが、意識はさえてきた。そこで自分が酔っ払って寝ていたことに気付く。周りがやけに騒がしい。また例のサラリーマンがしかっているのかもしれない。頭が痛い。黙ってくれ。しかし外から聞こえる声が静まりかえることはなかった。

さすがに一言、言ってやろう。

美香はゆっくりと目を開く。目の前の景色は鮮やかな赤に染まっていた。

熱い。

「何これ……」

目の前で見慣れた調度品や壁が燃えている。悲鳴を上げようとしたとき、煙が喉に入りむせ返る。内側から喉を突き刺されたようで、美香は思わずうずくまる。

家財が爆(は)ぜる音に紛れて、サイレンの音がどんどん近づいてくる。

意識を失いかけたとき、消防士が美香を抱きかかえた。何かいろいろと声を掛けられた気がするが、美香はそれが頭に入ってなかった。

消防士に連れられて家から脱出できた美香は救急車に乗せられた。両親が残してくれた家が囂々(ごうごう)と音を立てながら燃えていた。

●絶体絶命の美香……、命は助かるのだろうか? 後編にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。