●サポーターが沸いたあの名将の就任

 ローマは今年1月、ジョゼ・モウリーニョ監督の解任を発表。この決断に賛否が巻き起こる中、後任に就いたのがクラブのレジェンドでもあるダニエレ・デ・ロッシだった。当初は指揮官としての腕に疑問の声があったものの、蓋を開けてみれば成績は回復。その一因として、彼の昔から変わらぬ人柄が挙げられるのかもしれない。(文:佐藤徳和)

————————

 これほど稀有なシーズン途中の監督交代劇は、過去にあっただろうか。サポーターから熱烈に支持された監督が解任され、やってきたのは前任者以上に愛される監督。稀代の勝負師、ジョゼ・モウリーニョから、ローマの英雄、ダニエレ・デ・ロッシへの監督交代劇だ。

 モウリーニョは、2021年5月4日、契約満了により去った同胞のパウロ・フォンセカに代わって、ローマの指揮官に任命された。UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4度選ばれ、異なる2つのクラブを欧州王者に導いたモウリーニョの指揮官就任に、ロマニスティは歓天喜地の大喝采をあげた。

 ポルトでその名を世界に知らしめ、チェルシーで名声を確かなものとし、インテルでは3冠を獲得した名将の中の名将。そんな大監督が、イタリアの強豪の一角とはいえ、セリエAで優勝回数が3度しかなく、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)制覇の経験もないクラブにやってきたのだから、サポーターは、狂喜乱舞するしかなかった。さらには、ユベントスを契約満了となったアルゼンチン代表FWパウロ・ディバラを口説き落として、獲得に成功。モウリーニョ効果は絶大だった。

 3年契約、年俸は推定で700万ユーロ(約9.8億円)とセリエAでは、ユーベのマッシミリアーノ・アッレグリ監督と並んで最高給の指揮官。カンピオナートは、2季連続で6位と至上命題であったCL出場権獲得は達成できなかったが、欧州カップ戦では、2年連続でファイナル進出を果たした。21/22シーズン、設立1年目のカンファレンスリーグ(UCL)では、決勝でフェイエノールトを1-0で破り、初代王者に。翌シーズンは、UEFAヨーロッパリーグ(EL)で、通算7度目の優勝を成し遂げたセビージャの前に、PK戦の末に屈したが、フランチェスコ・トッティに「2季連続欧州カップ戦決勝進出はローマの100年の歴史で一度も成し遂げられなかったこと」と感嘆させた。それゆえ、サポーターは、リーグ戦で振るわないながら、モウリーニョを強く支持した。

●「一人の監督として扱ってほしい」(デ・ロッシ)

 しかし、契約最終年の23/24シーズンの1月14日、後半戦初戦の敵地ミラン戦で1-3の完敗を喫する。順位は9位にまで落ち、その2日後の現地時間9時30分、オーナーのダン・フリードキンとその息子のライアンの連名によって、モウリーニョの解任が発表された。すると、SNSには、解任に抗議する声が溢れ、ローマのトレーニングセンター、トリゴリアを車で後にするモウリーニョには、多数のファンが詰めかけ、「ありがとう、ミステル(イタリアでの監督の呼称)! ティラーナ(カンファレンスリーグ決勝の地)は、忘れません!」と絶叫し、感謝の意を表した。

 もちろん、解任に同意する声もあったが、成績不振ながら、これほど、続投を希求された指揮官も稀だろう。CL出場権獲得を目標とするクラブが9位に沈むのであれば、その監督はサポーターに「Vattene!(出ていけ!)」と罵声を浴びるのがつねだ。しかし、モウリーニョは違った。2年連続で欧州カップ戦決勝にチームを導いただけではなく、言動、パフォーマンス、とりわけ、選手やスタッフ、サポーターと共に戦う姿が、多くの人々の心に突き刺さった。モウリーニョは、永遠の都ローマでも、スペシャル・ワンな存在だった。

 シーズン途中の解任劇では、後任には通常、次のシーズンに向けての暫定的な指揮官、トラゲッタトーレ(橋渡し役)が任命されるものだ。しかし、解任から1時間も経たずに発表された新監督の名は、ダニエレ・デ・ロッシだった。ローマではトッティの公式戦出場記録786試合に次ぐ、歴代2位の616試合に出場したレジェンドだ。スペシャル・ワン解任への不満の声を封じ込めるには、これ以上ない、いや、これしかない後任監督だった。

 契約は、オプションなどの条項はつかない2024年6月までの契約。デ・ロッシは入団会見後の会見で「会長と副会長には、契約金については、あなた方が記した金額で、私はサインする。その代わり、レジェンドや元バンディエラとしてではなく、一人の監督として扱ってほしいと要求した」と、契約金については、いくらでも構わなかったとの見解を示した。

 2019年6月のローマ退団を経て、翌年1月にボカ・ジュニオルスでの挑戦を終えると同時に現役を引退。その後は、指導者としての道を歩み、イタリア代表に当時の指揮官ロベルト・マンチー二の強い意向で、テクニカル・コラボレーターとして招へいされた。主に選手と監督のパイプ役を務め、欧州選手権(EURO)制覇に少なからず貢献した。そして、代表スタッフを辞任すると、2022年10月11日、セリエBのSPALとの契約が発表された。

 ロベルト・ヴェントゥラート監督の後任として、指揮官デビューを飾ったものの、リーグ戦では、3勝6分7敗の17位と振るわず、翌年2月14日に解任の憂き目にあった。マッシモ・オッドに指揮を託したSPALは、残留争いの渦に飲み込まれ、19位でシーズンを終えて、セリエC降格となっている。指揮官デビューは、散々な成績だったこともあり、ローマでの指揮に、就任当初は過度な期待はなかった。クラブの英雄の突然の帰還を、温かく見守ろうとの見方が強かった。

●「このチームに残るため、死ぬまで戦う」

 しかし、蓋を開けてみると、リーグ戦では11試合を終えて、8勝2分け1敗と望外の結果に。もはや、モウリーニョの喪失を嘆く声は聞こえてこない。ELベスト16では、ブライトンを撃破。ホームでの第1戦には4-0と完勝を果たし、親交がありビッグクラブからの引き抜きの噂が絶えないロベルト・デ・ゼルビ監督から、見事にお株を奪った。

 そして、ハイライトは宿敵ラツィオとのデルビー。直近の4試合は1分3敗と、もう負けが許されない中での勝利だった。2022年3月20日以来の白星に、デ・ロッシは、試合後に咆哮を放った。

「監督としてデルビーに勝利することは、選手時代とはまったく異なる気分だ」と監督としてのデルビー初勝利に喜びを爆発させた。就任後は、攻撃陣が躍動。とりわけ、カピターノのロレンツォ・ペッレグリーニを蘇らせたことは何よりも大きかった。ローマでカピターノを担ったデ・ロッシであるからこそ、ペッレグリーニの苦悩に寄り添い、再生させることができたのかもしれない。SPAL時代からの参謀で、現在ローマで副監督を務めるギジェルモ・ジャコマッツィはこう評す。

「ダニエレとは5年前に共通の友人を介して知り合った。それから2年半前にローマでの夕食会で、偶然再会し、彼が私にスタッフの一員として働かないかと言ってくれた」と出会いの経緯を明かすと「お互い同じサッカーのビジョンを持っているんだ。彼はピッチでどう動くべきか、自身のアイデアを選手やスタッフに理解させる能力が高い、素晴らしいコミュニケーターだ。我々はハードワークし、SPAL時代と同じように、練習場には朝7時に来て、夜8時まで残っている。情熱を持ち、ゆっくりと成長し続けることが重要だと思っているよ」

 デ・ロッシは、ローマ第10区の海辺の町、オスティアの生まれだ。この町のアマチュアクラブ、オスティア・マーレでプレーしていたときのエピソードがある。11歳のときに、このクラブからローマに引き抜かれているが、9歳のときに、1度はローマへの移籍を拒否した。その理由は、「仲間と一緒にサッカーをしていたかった」からだという。そのオスティア・マーレのチームメイトは、当時のデ・ロッシをこう回想する。

「僕らの中では、かなり上手かったけど、デ・ロッシは誰かを除外するようなことはしなかった。それどころか、紅白戦でチームを作る際には、あえてちょっと下手な仲間を選んで、励ましていた。その頃から、偉業を成し遂げるという意義をわかっていたのだろう。そういったこともあって、彼はローマに留まり続けたのだと思う」

 仲間を大切にする姿は今も変わらない。ディバラやペッレグリーニが、ゴール後にデ・ロッシに一目散に走り寄るシーンは印象的だ。40歳の青年監督が、選手たちからも慕われている証拠だろう。

「このチームに残るため、死ぬまで戦う」と覚悟を決める。契約更新には、CL出場権獲得が条件となるようだが、デ・ロッシ以上にローマにふさわしい指揮官が果たしているのだろうか。

(文:佐藤徳和)