●エドゥー、モネールはこのシーズン終了までの契約だった

日本サッカー界の「汚点」――
日本で最初に本物のクラブチームとなる可能性があった「フリューゲルス」を潰したのは誰だったのかに迫った『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』より、「ブラジル人トリオ獲得の『裏側』1993-1994」を一部抜粋して公開する。(文:田崎健太)

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 フリューゲルスは第14節の名古屋戦に勝利した後、1勝7敗と一気に崩れた。セカンドシーズン終了時には9勝13敗の8位となった。前年の天皇杯の勝者が出場するアジアカップウィナーズカップの準々決勝が加茂監督の最後の試合となった。第2戦で香港のインスタント・ディクトに3対1で勝利。

 すでに来季に向けてのチーム編成が始まっていた。

 第17節以降、エドゥー・マランゴンが欠場していた。エドゥー、そしてアルゼンチン人サイドバックのモネールはこのシーズン終了までの契約だった。新外国人選手の獲得はエドワルド坂本という日系三世のブラジル人に託されていた。

 坂本がフリューゲルスと関わるきっかけになったのは、94年シーズン前、沖縄で行われたコリンチャンスとの親善試合だった。コリンチャンスに同行していた坂本は、全日空スポーツ本部長の中西たちと知己を得ることになった。

 坂本は1952年にサンパウロ州の内陸部、プレジデンテ・プルデンテという街で生まれた。

 ブラジルへの日本人移民が始まったのは1908年のことだ。ブラジル移民の特徴は家族単位で行われたことだった。子どもが働き手として計算されたのだ。坂本の祖父母は幼い息子を伴って農園に入った。成長した息子はブラジルで知り合った日系人女性と結婚し、坂本が生まれた。

 坂本が物心ついたとき、一家は農園を出てプレジデンテ・プルデンテに住んでいた。プレジデンテ・プルデンテはサンパウロの衛星都市として発展を遂げようとしていた。祖父母は八百屋を経営、父親は友人たちと飲料水の会社を立ち上げていた。坂本は大学卒業後、広告代理店勤務の傍ら、レストラン経営を始めた。

 日本とブラジルの距離が一気に縮まるのは、80年代のことだ。

 85年9月、先進五カ国の財務担当大臣、長官はドル高是正のための協調介入の強化に合意した。このプラザ合意により急激に円高が進むことになる。プラザ合意の日、1ドルは235円前後だった。翌86年7月には150円台となっている。円の価値が高まり、日本経済はバブルの渦の中に入っていく。

 ブラジルの日系人の間では「デカセギ」という単語が飛び交うようになった。80年代、ブラジルを含めた中南米諸国は対外債務が膨らみ、急激な物価上昇、貨幣価値の下落──インフレーションに悩まされていた。一方、日本では好景気の中、「きつい、汚い、危険」という頭文字をとった「三K」の職場で人手不足が深刻になっていた。それを日系ブラジル人が埋めることになった。出稼ぎを斡旋する業者が次々と現れ、旅行代理店の仕事も急増した。その一つが「ハレルヤワールド」だった。

 ハレルヤワールドは、旅行業務に加えて、日本のテレビ局の仕事を請け負った。中にはカラオケ大会などの音楽イベントもあった。この頃、日本から「カラオケ」がブラジルに入っていたのだ。ギターを弾くことが趣味であった坂本は音楽関係の仕事の手伝いから始め、ハレルヤワールドの本業、旅行業務にも関わるようになった。

「沖縄で(全日空スポーツの本部長である)中西さんと知り合ってから、サッカーの情報があればファックスで流すようになった。本格的に動き始めたのは、94年の後半でした。来季は結構なお金を投資してチームを立て直す、というんです。最初は10番の選手と(守備的ミッドフィールダーである)ボランチの二人を欲しいという話でした」

 サッカーでは、しばしば背番号で役割を表す。10番とは中盤で試合を組み立てる選手のことだ。エドゥー・マランゴンに代わる選手だった。

「その後、10番のポジションにバウベルを使うので、ボランチとフォワードの二人を獲りたいということになりました。その当時は監督がまだ加茂さんでした。加茂さんはボランチとしてドゥンガが欲しいというんです」

 この年に行われたワールドカップ、アメリカ大会で優勝杯を掲げたブラジル代表の主将である。

(文:田崎健太)