最適の学校

さて、話を嘉子の時代に戻しましょう。

それまで男性に限定されていた弁護士の資格が、1936年からは女性にも広げられたわけですが、弁護士になるには難関な国家試験を突破しなければいけませんでした(この頃もなお、弁護士の地位は判事・検事と比べると低かったのですが、とはいえかつての代言人のイメージとは全く違うものになっていました)。

この頃の試験は、高等試験令(高等試験は1894年から1948年まで行われていた、いわゆる高級官僚の採用試験です。もともとは「文官高等試験」、1918年以降の正式な名称は「高等試験」ですが、嘉子の頃も一般には「高文試験」・「高文」と言いならわされていました)によって定められた高等試験司法科というもので、これに合格しないといけませんでした。

さらに、この高等試験司法科に合格したあと1年半の期間、弁護士試補として修習を受ける必要があり、その後にもう一度試験を受けて合格すると、やっと弁護士となることができたのです。

そして、高等試験司法科を受けるためには、厳しい予備試験にチャレンジするか、予備試験の免除を勝ち取るか(高等学校を卒業しているか、大学の予科を修了しているか、文部大臣が特に指定した専門学校を卒業しているかが条件)しかありませんでした。

結局、弁護士法の第二条第一が改正されても、この条件があることによって、女性が弁護士になるということはかなり困難だったのです。

その中で、先ほど述べた通り、明大女子部法科は、弁護士法が改正されることを見越してその少し前に開設され、さらに明大法学部への編入を認めていました。

つまり、女子が弁護士を目指すには、明大女子部法科が最適の学校だったのです。