日本初の民間銀行創業の発端となった「三井大坂両替店」。1691年に開設されたが、元は江戸幕府に委託された送金役だったという。そこから、民間相手の金貸しへと栄えるまで、どのような道のりだったのか。三井文庫研究員の萬代悠さんが、三井文庫の膨大な資料を読み解き、事業規模拡大までの道のりを著した『三井大坂両替店』(中公新書)。今回は、江戸や京都にもあった三井両替店の中で、最も成長率が高かった大坂両替店における奉公人たちの待遇について紹介します。

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奉公人の待遇

大坂両替店で実際に働く奉公人について説明する。京都呉服店に関しては西坂靖の重厚な研究があるので〈西坂靖『三井越後屋奉公人の研究』(東京大学出版会、2006年)、友部謙一・西坂靖「労働の管理と勤労観――農家と商家」(宮本又郎・粕谷誠編著『講座・日本経営史1 経営史・江戸の経験――1600〜1882』ミネルヴァ書房、2009年)〉、西坂の研究を参考にしながら、大坂両替店の特徴を示しておきたい。

奉公人には、店表(たなおもて)と台所(だいどころ)という二種類の区別があった。店表とは、いわゆる営業部門に相当し、これは手代と子供(丁稚)に区別された。手代は一人前の従業員であり、子供は手代を補助する半人前の従業員だ。

子供は、16〜19歳の元服を経て手代に昇進した。一方、台所とは、炊事などの家事労働や接客以外の単純労働に従事する家事・雑務部門に相当した。平(ひら)の奉公人たちは、住み込みで共同生活を営み、すべて男性から構成されていた。

店表と台所の違いは、業務内容だけにとどまらない。勤務形態と方針も異なった。店表の場合、勤務形態は「手代奉公」と呼ばれた。「手代奉公」は、営業熟練者の養成を目的とし、10年以上の長期雇用を想定したものだ。

これに対し台所の場合、勤務形態は「下男(げなん)奉公」と呼ばれた。「下男奉公」は、早めの給金の取得を目的とし、半年または1年の短期雇用を想定したものだ。以下では、とくに断らない限り、店表の奉公人について解説する。

店表の奉公人は、多くの場合、子供からはじまった。基本的には、大坂および大坂周辺から集められ、入店する年齢は10〜13歳だ。親元から離れた子供たちは、住み込み生活を約5年続けたうえで、元服し、手代に昇進できた。

少年時代から入店し、店内で養育された者のことを子飼(こがい)といった。三井の主眼は、子飼いを一人前にすることにあった。