インフラ工事の神・忠次さんの“基礎”

忠次さんは1550年(天文19)に小島で生まれたそうで、徳川家康の8歳年下にあたります。

このまま順風満帆かと思いきや、1563年(永禄6)の「三河一向一揆」(家康に反発した三河の一向宗による一揆)で忠次さんのお父さんの伊奈忠家が、一揆側に味方してしまったため松平家から追放、忠次さんも父に従って三河を離れ、伊奈家は再び流浪の旅に出ることに。

しかし、1575年(天正3)の「長篠の戦い」でお父さんが松平信康(家康の長男)の陣にこっそり参加して活躍。忠次さんは父とともに徳川家に復帰します。

こうして松平信康の家臣となったものの、4年後に家康と対立した松平信康は自害に追い込まれ、忠次さんはまたまた松平家を離れることになります。

先に三河を離れていた伯父(伊奈貞吉)を頼って、父とともに仕方なく堺(大阪府堺市)に仮住まいしていたところ、あの事件が起きます。1582年(天正10)の「本能寺の変」です。

この時、家康は偶然にも忠次さんが暮らしていた堺を観光していて、京都に戻るところでした。しかし、同盟相手の織田信長の死を聞いて、岡崎への決死の逃走劇「伊賀越」を決行します。

堺在住の忠次さん親子は独自にパイプを築いていたのでしょうか、この伊賀越えで大活躍をしたそうで、徳川家に復帰することを許されたそうです。まさに紆余曲折!

忠次さんは1586年(天正14)に家康が駿府城へ移った際に家康の近習(きんじゅう。側近)に大抜擢されます。これがインフラ工事の神・忠次さんの“基礎”です。