田尾安志氏は1985年キャンプイン直前に西武へトレード移籍

 現役時代に通算1560安打を放った田尾安志氏(野球評論家)は、1985年のキャンプイン前に西武へ電撃移籍した。杉本正投手と大石友好捕手との2対1の交換トレードだった。「全然、予想していなかったです」。4年連続打率3割、3年連続セ・リーグ最多安打、オールスターゲームにも5年連続出場。実力あり人気ありの中日の「顔」的な主力打者だったのだから無理はない。ファンからはトレード反対の署名運動も起きる事態になった。

 1985年1月24日、田尾氏はナゴヤ球場での合同自主トレ中に球団関係者に選手食堂へ行くように言われたという。「行ったら(鈴木恕夫球団)代表と(監督の)山内(一弘)さんが2人並んでいた。代表に『西武とのトレードが決まりました』と言われて『ああ、そうですか、わかりました』と言ってすぐに(食堂から)出ました。代表の前であたふたするのが嫌だったのでね。だから(この件に関して)球団には何も言っていないんです。ああ、やられたなって思いましたけどね」。

 当時、田尾氏は中日の選手会長を務めていた。「選手に(球団への)要望をキャンプ中に聞いて、キャンプ後半に選手からこういう話が出ていますって代表に伝えていたんですけど、たぶん個人的に嫌われていたんでしょうね。今みたいに選手会が強いという時期ではなかったんでね。できる範囲で結構ですので、よろしくお願いしますと普通に下手に出ていたんですけど、それでも嫌がられていた感じでした」と苦笑しながら話す。

「優勝した(1982年)オフに牛島(和彦投手)の給料があまりに上がらないから、(堀田一郎)球団社長の自宅まで行って『何とかなりませんか』と言ったこともありましたね」というように田尾氏は時として思い切った行動をする。よかれと思えば思い切った発言もする。そんな部分が球団フロント、特に鈴木代表から快く思われていなかったのではないかと言われている。だからトレードを通達された時、田尾氏は「やられたな」と思ったわけだ。

 宏子夫人からは「栄転おめでとう」と言われたという。「(トレードを)どう言おうか、急だからびっくりするだろうなって思いながら家に帰ったんですけど、もうニュースが流れて女房は知っていたんです。うまいこと言うなって思いましたね」。何かしら気持ちが楽になったのは言うまでもない。この時だけではなく、夫人の言葉には何度も何度も励まされているし、救われているそうだ。

トレード反対の署名運動も…「戦力として認められたところでやろう」

 とはいえ、田尾氏の電撃トレードは中日ファンにも衝撃を与えた。ドラフト1位で新人王、球界屈指のヒットメーカー、甘いマスクで人気も抜群とあって、トレード撤回を求める署名運動がファンから巻き起こった。1976年オフに藤波行雄外野手はクラウン(現西武)へのトレードを拒否、出場停止などのペナルティを受けて残留したが、この時もファンからトレード反対の署名運動が起きて、大きな力になった。田尾氏の場合もしかりだったが、トレードは拒否しなかった。

「僕も拒否すれば、藤波さんみたいに元の鞘に収まったかもしれない。でも、どんな理由があるにせよ、中日は僕をいらないと決めたんだと、それはそれで受け止めなければいけない気持ちも自分の中にはあったんです。自分が戦力として認められたところでやろうということでね」。中日への愛着は誰よりもあったつもりだ。ファンの行動にも感謝した。そして、名古屋を去った。切り替えて西武に移籍した。

 ちなみに大の田尾ファンだったイチロー氏(マリナーズ会長付き特別補佐兼インストラクター)は、小学校の家庭科の授業でエプロンに刺繍する際“田尾もどせ”との文字を入れていたという。「イチローのお父さん(鈴木宣之氏)に僕のYouTubeに出てもらった時に、その話を聞きましたし(刺繍の)写真も見せてもらいました」と田尾氏は目を細めた。成績も人気も絶頂時の電撃トレード余波は、いろんなところでもあったことだろう。

 フロントとギクシャクしてしまった中日時代。田尾氏は「僕もやり方を変えないといけなかったのかな、というのはあるんですけどね。まぁ若気の至りでいろんなことをやりましたが、みんなチームのためにという意識でやっていたし、それが正しいと思ってやっていたので、あの時点ではしょうがなかったという気もします」と後悔はしていない。

 9年間在籍した中日での通算打率は.301。「移籍する時、記者にいただいた記念品に数字が全部書いてありました。ああ、中日では3割バッターで終わったなと思いましたね」と笑みを浮かべた。ドラフト1位での入団以来、精一杯プレーした、チームのために戦った、フロントとも闘った。この後、西武、阪神を経験し、楽天では監督も務めたが「中日関係とのつながりが今も一番多いと思いますね」。“中日・田尾”の実績もまた、ドラゴンズの歴史には欠かせない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)