牛島和彦氏は中1でレギュラーも夏に退部…厳しい上下関係が嫌だった

 フォークボールを武器に頭脳派投球で知られたのが、牛島和彦氏(野球評論家)だ。浪商時代には“ドカベン”香川伸行捕手との黄金バッテリーで甲子園を沸かせ、中日では守護神としてリーグ優勝に貢献。落合博満内野手との世紀のトレードでロッテに移籍後は、リリーフでも先発でも結果を出した。引退後は横浜監督も務めるなどその野球人生は華々しいものだが、振り返れば中学時代の同級生たちの存在がなければ、野球そのものをやっていなかったかもしれないという。

 牛島氏は大阪・大東市立四条中の野球部で1年からレギュラーだった。「外野で出ていました」。1961年4月13日生まれ。野球には幼少時から接する機会が多かったそうだ。「親父の弟が草野球チームに入っていて、土日とか連れていってもらって、草野球の横でキャッチボールしたり、大人たちが相手してくれたりって感じでした」。一人の時は壁当て。「お袋のお姉さんのところが奈良で革製品を扱ってグローブも作っていたので野球に親しみもありましたね」と話した。

 ちなみに牛島氏の名前の「和彦」は、バットを横に寝かせる独特な構えの天秤打法で知られた近藤和彦外野手(元大洋、近鉄)からつけられたそうだが、こんなことも明かした。「親父は(西鉄エースの)稲尾さんの「和久」ってつけるつもりで近鉄-西鉄戦を見に行って稲尾さんにサインくださいと言ったら、もらえなかったらしいんですよ。投げる日に頼んだからでしょうけどね。それでつけるのをやめたそうです。中日で稲尾さんが投手コーチだったので、その話をしたら笑っていましたよ」。

 名前の由来からも野球をやるのは決まっていたのかもしれない。「小学校の高学年になって、近所の軟式チームや学校の野球クラブに入りました。ピッチャーをやっていましたね。同級生よりしっかりボールを放れていたし、5年か6年の時にソフトボール投げがすごいと言われた記憶もあります」。その流れで中学でも野球部入りしてレギュラー。しかし、1年の夏には退部したという。「1年でレギュラーになると先輩たちがいるし……」。厳しい上下関係が嫌だったのだ。

1年の“ブランク”を経て復帰…ドカベン香川擁する強豪校と大激戦

「その頃は甲子園に出たいとか、プロに入りたいなんて思いはなかったんでね」。それに耐えてまで野球をやりたいとは思わなかった。その後は「“帰宅部”ですね。フラフラ遊んでいました。(スポーツなどは)何もやっていなかったですね」。そんな生活が1年間続いた頃、野球部の同級生たちから「ピッチャーがいないから戻ってきてくれ」と声がかかったという。中学2年の夏、先輩が部からいなくなり、牛島氏の代が最上級生になったタイミングでの誘いだった。

 それで復帰を決めたという。やはりもともと力はあったのだろう。“帰宅部”時代のブランクは関係なかった。エースとして出場した大阪府の大会で結果も出した。「四条中は大阪でも田舎の方で、大会に出ても『どこにあるんだよ』『四条って京都じゃないのか』って感じだったんですよ」というが、この大会で「四条中・牛島」は一気に有名になった。「1回戦が完封で、2回戦は完全試合」。さらにインパクトを与えたのが、次の大阪体育大付属中戦だった。

「そこは浪商の付属中学で、香川とかがいて、いつも優勝候補で、優勝していくみたいなチームだったんですが、延長12回で2-2だったんですよ。だいたい12回で引き分け再試合になるんですけど、その時は日程がなくて、球場が取れないから決着つくまでやってくれとなって、延長13回に点を取られて負けたんですけどね」。敗れはしたものの、エース・牛島氏の力投が光っての強力チームとの大激戦は高校球界からも注目を集めた。

「そこからですね。何かあちこちから誘われて……」。その結果、最終的に浪商への進学を決め、香川とバッテリーを組むことになるわけだが、それもこれも、中学時代に野球部の同級生たちからの「戻ってきてくれ」コールがあったからこそ。「あの時言われなかったら(野球部に)戻ってなかったかもしれないですね」。あのまま“帰宅部”を続けていたら、その先の野球人生も変わったことだろう。牛島氏にとって、それは最初の分岐点だったようだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)