フランス人の父と日本人の母を持ち、母の古里だった長崎市戸石町で少女時代を過ごした女性が残した戦時中の絵日記などが25日、フランスに住む遺族から市に寄贈された。絵日記は当時の暮らしや戦争が落とした影を子どもの目でつづった貴重な記録。戸石公民館で近く公開が予定され、郷土学習や平和学習に役立てられる。

 女性は、2021年に93歳で亡くなったルイズ・ルピカールさん。父の赴任先のベトナムで生まれた。1937年の夏休み、一家は戸石に里帰りしたが、日中戦争の影響で戻れなくなり、48年まで長崎や横浜など日本国内を転々とした。43年末〜45年6月には戸石で軟禁状態に置かれた。ルイズさんは当時の戸石国民学校高等科に編入し、「正子」という日本名を名乗らされた。
 絵日記は44年7月21日〜8月20日、わら半紙に1日ずつ書かれていた。
 毎朝5時半に起き、掃除や水くみ、田の草取りをした。「本が読みたい一心」で、さらに早起きする日があり、休みの日には「ちっと寝坊をした」。
 友だちが欠席してひとりぼっちで学校に行く日は「一日中ものたりない様な気がする」。学校で九九を教わって暗唱すると「昔の番頭さんになった様な気がする」。健康上の理由で水泳を止められ「自分では本当に情けないと思ってを(お)ります」
 一方、防空壕(ごう)を造ったり、地元の戦死者の墓参りに行ったりと、日常の中に戦争があった。空襲に遭った日には「照明だん、高射砲、機関銃、ありとあらゆるばくやく。敵機はもうにげた」と記した。
 絵日記だけでなく、当時の子どもが口ずさんだ歌の詞を書き取った紙も残されていた。「上海の花売り娘」「湯島の白梅」などの流行歌だけでなく、「大空に祈る」といった戦時歌謡や軍歌もあった。軍国主義が次第に子どもたちを染めていく様子もうかがえる。
 終戦後、ルイズさんはベトナムを経てフランスへ居を移したが、この絵日記を手放すことはなかった。日本語を忘れず、フランスでも俳句や短歌をたしなみ、晩年には「ルイズが正子であった頃」など2冊の自分史を日本語で出版した。
 遺品を携えて来崎した三女のポール・クラマーさん(66)は「母は『戸石で過ごした日々が、私の人生で最良の時代だった』とずっと話していた。絵日記は私たちが持っているより、戸石で多くの人に見てもらえれば、母も喜ぶでしょう」と話した。
 ルイズさん一家と長年交流し、寄贈を仲立ちした長崎市の木下孝さん(77)は「文や絵から当時の息吹が伝わり、古びても持ち続けたことからはルイズさんが少女時代の思い出をどれほど大切にしたかが感じられる」としのんだ。