熱帯のサンゴ礁に囲まれたフィジー最大の島ビティレブ島は、シュノーケリングスポットとして人気が高い。その海岸から数キロ奥に入った砦跡で、最近になって島の住民が珍しい集団墓地を発見し、2024年2月29日に大量の人骨が掘り起こされた。

 これらはまだ分析されていないが、かつて長い間、部族同士の争いで行われてきた食人儀式の犠牲者ではないかと、地元の人々は考えている。一方、考古学者たちは、麻疹(はしか)の流行で大量死した人々のものである可能性が高いとしている。1875年に、フィジーの王はオーストラリアを訪問した際に麻疹を持ち帰り、王の臣下の3人に1人が命を落とした。

フィジーの成り立ちと白人の来訪

 ニュージーランドの北1600キロに位置するフィジーは、300以上の火山島から成る群島国家だ。現在のポリネシア人の祖先で、ラピタ人として知られる海洋民族が、およそ3000年前にこの地に定住した。後に、西はメラネシアの島々、東はサモアやトンガなどからも人々が移り住んだ。今から1000年前には、フィジーは南太平洋の重要な交易の交差点として発展していた。

 1789年、「バウンティ号の反乱」で有名なウィリアム・ブライ船長が、ヨーロッパ人として初めてフィジーの海岸の地図を製作した。その後19世紀前半から半ばにかけて、米国とヨーロッパの商人や宣教師がやってきた。

 島には、戦いで勝利した者が敗者の力を取り込むためにその肉を食べるという風習があった。そのため、西洋人たちはこの島を「人食い島」と呼び、その風習をやめさせようとした。

 さらに、中国へ輸出するナマコを捕ったり、綿花を栽培する土地を求めて、多くの入植者もやってきた。宗教と経済の激変により、フィジーでは異なる部族間の闘争が増え、英米諸国は肥沃な島々を自分たちのものにしようと画策した。

 1867年、英国人宣教師のトーマス・ベーカーがシガトカ川沿いの高地部族をキリスト教に改宗させようとすると、危機は頂点に達した。族長の頭に触れることは重大な禁忌行為とされていたが、ベーカーはそれを侵して部族の怒りを買い、改宗した7人のフィジー人とともに殺されたと伝えられている。

 遺体はバラバラにして焼かれ、ビティレブの村人らに食べられた。ベーカーの革のサンダルは現在、首都スバにあるフィジー博物館に展示されている。

 ベーカーの死、地元部族の襲撃、さらに2人の白人殺害事件が重なり、白人の自警団が復讐のため島を徘徊するようになった。そのなかには、米国の白人至上主義集団「クー・クラックス・クラン」を名乗るグループもいた。

絡み合った戦争と食人と疫病

 混乱の末、伝統的な生活を維持していた高地の部族と英国人との間で紛争が起こった。英国側はキリスト教に改宗した海岸沿いの部族やほかの白人と手を組んでいた。

 今回大量の人骨が見つかった丘の上のタブニの砦は、高地部族の一派が拠点としていた場所で、海岸から内陸へ約10キロ入ったシガトカ川の湾曲部が見下ろせる戦略的な位置にあった。発掘や口承によると、1800年前後にトンガからの移民がタブニに定住し、族長の家とその他60棟ほどの建物を丘の上に建て、地元の女性と結婚したという。

 1870年代初頭、キリスト教徒の王族であるカコバウ率いる初代統一フィジー政府に対するゲリラ戦で、タブニの村人たちは高地のカイコロ族に味方した。1874年、カコバウはフィジーの支配権を大英帝国に引き渡す協定に署名し、併合を祝うために船でシドニーを訪問した。

 ところが、そこで王とその外交団は麻疹に感染した。島に戻ると、まったく免疫がなかった島民の間でウイルスはあっという間に広がり、約4万人が命を落とした。

 この頃、英国軍とカコバウの勢力はカイコロとその同盟部族を倒すべく激しい戦いを仕掛けた。1876年の戦いでタブニに火が放たれ、反乱軍は高地に追いやられて散りぢりになった。廃墟となったタブニの砦は、やがて深い森に飲み込まれていった。

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