米ヒューストン郊外在住のケーシー・アーノルドさんは、2023年の冬に55歳で完全にたばこをやめるまで40年間にわたって喫煙を続け、多い時は1日に2箱吸っていた。そんな彼女の禁煙を助けてくれたのは、「GLP-1受容体作動薬」という新しいタイプの減量薬だった。

 GLP-1(グルカゴン様ペプチド-1)は、インスリン(血糖値を下げるホルモン)の生成と放出を促し、消化のスピードを遅くし、食欲を抑える働きをもつホルモンだ。元は糖尿病の治療薬として開発されたエキセナチド、チルゼパチド、セマグルチドといったGLP-1受容体作動薬は、このGLP-1をまねて作用する。

 米食品医薬品局(FDA)は2024年3月、セマグルチドを成分とする肥満症治療薬「ウゴービ」を、心血管疾患を抱える肥満症患者の心臓発作と脳卒中のリスクを減らす薬としても承認した(編注:日本ではこの用途としては未承認)。

 ところが、GLP-1受容体作動薬の利用者が増えてくると、この薬には依存症や心不全、腎臓病など、これまで治療法が限られていた疾患に対する意外な健康効果があることがわかってきた。

 アーノルドさんがたばこをやめたのは、喫煙依存症の治療法としてGLP-1受容体作動薬を使う可能性を調べる臨床試験に参加したときのことだった。

「以前たばこをやめようとしたときとは正反対の体験でした」とアーノルドさんは言う。不安や怒りの代わりに彼女が感じたのは穏やかさであり、たばこへの渇望も薄れていった。

「さまざまな患者層に対して、雪崩のように効果が広がっています」と語るのは、英グラスゴー大学の心臓専門医マーク・ペトリー氏だ。氏は心不全患者におけるGLP-1受容体作動薬の使用をテーマに研究を行っている。「いいニュースがそこら中から聞こえてきます」

心不全の約半数を占めるタイプ

 米国では、約600万人以上が心不全を患っている(編注:日本では約120万人と推定されている)。患者のうち約半数は、血液を送り出す機能は正常にもかかわらず、心臓が硬すぎて広がらず中に十分な血液が入ってこない「駆出率(血液を送り出す収縮機能)が保たれた心不全」と呼ばれるタイプだ。

 2023年8月に医学誌「The New England Journal of Medicine」に発表された研究は、駆出率が保持された心不全の治療薬としてセマグルチドを使う臨床試験を、糖尿病がない患者を対象に行っている。

 その結果、セマグルチドを投与された患者は、プラセボ(偽薬)の患者と比べて症状が少なく、生活の質も良好だった。また、セマグルチドを使った患者は、炎症のマーカーであるC反応性タンパク質の血中濃度が低かった。

 この研究は規模が小さいため、セマグルチドが入院や死亡のリスクを下げるかどうかまでは判断できないものの、患者の生活の質が著しく向上したことを考えれば、期待が持てると言えるだろう。

 こうした薬はまた、心不全の原因とされる炎症を減らす効果もある。米クリーブランド・クリニックの心臓病専門医アマンダ・ベスト氏は言う。「われわれは体重計の数字だけでなく、もっと多角的に考え続けなければなりません」

 もう一つの主要な心不全のタイプである「駆出率が低下した心不全」については、今のところ、これらの薬が有効だと示す証拠はあまり見つかっていない。

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