12月21日、神奈川県横浜市の日産自動車株式会社で「日産自動車硬式野球部、監督、ヘッドコーチ就任」の記者会見が行われた。

 2025年から活動を再開する日産自動車本社硬式野球部の監督は、同野球部OBの伊藤祐樹氏(51)、ヘッドコーチに同じく四之宮洋介氏(46)が就任する。

 今年9月に発表された、日産自動車本社硬式野球部の「15年ぶり活動再開」のニュースは、スポーツ界、野球界のみならず、経済界にも大きなインパクトを与えた。それもあってか、記者会見場にはテレビカメラなどが4台、スポーツメディアのみならず、一般紙の記者も多数詰めかけた。

「日産自動車野球部の復活を強く待ち望んでいた。50年の歴史がある野球部は、いったん歩みを止めたが、また新たに一歩を踏み出すことになった。精いっぱい頑張っていきたい」

 伊藤祐樹次期監督は緊張の面持ちで語った。また四之宮洋介次期ヘッドコーチも「14年間社業に就いて勉強してきたが、その中で会社の人、地域の人から復活してほしいと言う声を聴いてきた。自分が野球をしたいというより、そういう人の声に応えたいという気持ちがあった」と語った。

「日産自動車の野球」の命脈を保ってきた2人

 2人は日産自動車時代はともに内野手として活躍した。伊藤氏は社会人野球ベストナイン3回、IBAFワールドカップでは日本代表の主将を務め「ミスター日産」と呼ばれた。また四之宮氏も社会人野球を代表する名遊撃手として永く活躍した。

 休部になってからは、伊藤氏は日産自動車に勤務しながら少年野球教室などの活動を続けた。また昨年からは三菱自動車岡崎に出向してコーチを務めていた。四之宮氏も日産自動車に勤めながら母校青山学院大学を指導するなど、細く長く「日産自動車の野球」の命脈を保ってきた。

 それだけに2人の表情からは「万感の想い」のようなものが感じ取れた。

 反対に言えば、14年前の「日産自動車野球部休止」のニュースの衝撃はそれほど大きかったということだ。

 日産自動車本社硬式野球部は、1959年に活動開始、1965年には都市対抗野球に初出場し、以後29回の出場を数え、1984年と1998年には優勝を果たしている。準優勝は3回。社会人野球日本選手権大会にも16回出場し、2003年に優勝。こちらも準優勝3回。

 プロ野球には阪急、広島で活躍した左腕投手渡辺弘基、1985年の阪神優勝時の先発投手の一角だった中田良弘、阪神、ダイエーで活躍した投手の池田親興、同じく阪神で活躍した投手の川尻哲郎、日本ハム、ヤクルトの救援投手だった押本健彦、さらには広島の名内野手梵英心、西武の先発投手野上亮磨など多くの人材を輩出している。

 また、活動休止後、他の社会人野球チームを経てプロ入りした選手にはヤクルトの救援投手、久古健太郎、西武の外野手熊代聖人などがいる。

 そうした実績と共に、日産自動車本社硬式野球部は基本に忠実で、よく鍛えられた守備、走塁で知られたチームであり、プロ野球とは一線を画した「社会人野球らしいチーム」だったと言える。

 こうした「質実剛健」なチームカラーを愛する多くのファンがいた。また「ブルーバード」のエンブレムも野球ファンにはおなじみのものだった。

「企業の顔」が休部に追い込まれた背景

 一方で1986年には福岡県京都郡苅田町に本拠地を置く日産自動車九州硬式野球部も発足。こちらも都市対抗野球に出場6回、社会人野球日本選手権大会に出場9回の強豪チームとなった。「日産自動車」は社会人野球界に確固たる名声を築いていたのだ。

 しかし2009年2月、日産自動車は、卓球部、陸上部と共に、本社、九州の硬式野球部をこの年限りで休止すると発表した。

 2008年に起こった「リーマンショック」による世界的な経済金融危機のあおりを受けた形ではあったが、その発表は野球界を震撼させた。

 確かに企業スポーツは、親会社の経営状況に左右されるのは仕方がないところではある。しかしある意味で「企業の顔」だった野球部が休部に追い込まれた背景には「社会人野球そのもの」のステイタスの変化があったことも見逃せない。

 社会人野球は戦前に始まった「都市対抗野球大会」に端を発し、戦後急速に発展した。高度経済成長期には、社員の「福利厚生」「一体感の醸成」を目的として、多くの企業が野球部を持つに至った。高校、大学から入社した選手たちは、社業の傍ら、練習に励み「企業の代表」として大会に出場した。大きな試合では、職場ごとに大応援団が結成され、派手な応援合戦で盛り上げた。「社会人野球」は「プロ野球」「高校野球」とは異なる独特の文化を築き上げてきたのだ。

 しかし経済成長がひと段落して、企業そのものが変質し、終身雇用が揺らぐなど働く社員たちのライフスタイルも多様化する中で「わが社の野球チーム」を取り巻く環境も変化した。

 社会人野球では、企業が直接野球チームを保有する会社野球チームは減少し、他に仕事を持つ選手によるクラブチームが増加したのだ。

 日本野球連盟の統計によると1978年には連盟加盟チームの内、会社チームは179、クラブチームは131だったが、2008年には会社チームは84、クラブチームは269になった。2021年は会社チーム97、クラブチーム249と多少持ち直している感があるが、2021年の場合、会社チームには「専門学校チーム」が10含まれていて、実際にはそれほど増えていない。

 新型コロナ禍で、経済的に厳しいクラブチームの中には、活動を休止したチームもある。会社、クラブも含めて、社会人野球は「縮小」しつつあると言ってよかった。それに代わってここ数年「独立リーグ」の台頭が目立つ。

 特にプロ野球を志望する選手にとって「社会人野球は高卒の場合3年、大卒でも2年在籍しないとドラフト指名されないが、独立リーグなら1年で指名される。それに社会人野球から育成指名はないが、独立リーグは育成でも指名される。プロに行くなら独立リーグの方が早道だ」という声も聞こえてくるのだ。

日産自動車野球部の再開に期待されるもの

 そうした状況だっただけに「日産自動車硬式野球部」の復活は、本当に大きなニュースだ。

「今後の企業は会社のカルチャーがしっかりしていないと成長は望めない。野球の応援を通じて、企業の一体感や意識の向上につなげていきたい」と浜口貞行常務執行役員は語った。柔和な表情だったが、そこには確固とした決意が見て取れた。筆者は会見後、濱口氏に「今年はWBCでの世界一や慶應高校の優勝、阪神のA.R.E.など野球の力を見せつけた1年でしたから、良いタイミングになりましたね」と聞いたが「まさしくそうなんです」との答えが返ってきた。

 九州野球部は休部後、『苅田ビクトリーズ』として活動を続けていたが、来年から日産自動車九州硬式野球部として活動を再開する。また、再来年に始動する本社野球部は、神奈川県横須賀市追浜に新たに練習場を作る予定だ。

 伊藤氏、四之宮氏は、チーム再開へ向けて設立準備室の業務に専念する。選手は学生を中心に22人程度を予定している。また、コーチやスタッフも整備する。

 そもそもどんな世界でも「休部」「休止」「休刊」したものが「再開する」ということ自体がめったにないことだ。日産自動車野球部の再開は、それだけでもチャレンジングなことである。14年前と野球界を取り巻く環境も大きく変わっている。そんな中で、日産自動車野球部は、どんな「新しい野球」を見せてくれるのだろうか? 新たな挑戦が始まる。

文=広尾晃

photograph by Yuki Suenaga