18人の部員、そして4人の女子マネージャーの笑顔が弾ける。

 1月26日、21世紀枠の出場校として最長ブランクとも言われる76年ぶりのセンバツに選出された。

 田中格監督は感慨深げにこう明かす。

「(21世紀枠の候補になった)9校は素晴らしい学校さんばかりで、自分たちは正直厳しいかなと思っていました。(一報を聞いて)泣くことはないと思っていましたけれど、自然と涙が出ました」

 昨秋は県大会準優勝で近畿大会に出場するも、初戦で京都国際に延長10回タイブレークの末、2−3で敗れた。何より田辺の昨秋の戦いぶりで最も印象的だったのが、県大会の準々決勝、準決勝で市和歌山、智弁和歌山を連破したことだ。

 田中監督は言う。

「組み合わせが決まった時に、市高(市和歌山)、智弁を倒さないと近畿大会には行けないのかと。うーんと……(苦笑)。周りの人からすごいくじ運やなと(言われた)。

 ただ、このチームは感情をあまり表に出さないと言うか。緊張もしないんです。喜怒哀楽を出さないんですよね。良いのか悪いのかっていうのはありますけれど」

市立和歌山、智弁和歌山…強豪校を相次いで撃破

 準々決勝の市和歌山戦。

 3回まで2−0とリードし、4回にさらに2点を加えるも1点を返された。だが、5回にさらに3点を奪い、試合の主導権を握った。

「序盤に点が取れて普通に立ち上がっていって、あれ?違うなって感じでした。これはいけるのかなっていう展開になって点差が開いていきましたけれど、どこかでバタつくのかと思ったら、それがなくて……」(田中監督)。

 試合は結局、2−9で8回コールド勝ち。田中監督からすると、“まさか”の展開だった。

 そして準決勝の智弁和歌山戦だ。ただ、この試合は終盤まで劣勢だった。2点を先行されたまま7回を迎えた。だが、7回に智弁和歌山の2番手・1年生の宮口龍斗が突如制球を乱し、満塁のチャンスを作った。押し出し四球で1点を返し、なおも満塁。そこで4番の山本陣世に打席が回ってくる。

 山本は2球目のスライダーを空振りした。だが、怯まずに再び来たスライダーをすくい上げると、打球は左翼スタンドに吸い込まれていった。

 田中監督は当時をこう回顧する。

「ホームランは想像してなかったです。あるとしたら1本出て追いついてチャンスが繋がるかと思いました。山本陣は市高戦でもホームランを打っていますが、相手がどうこうでも動じないメンタルの強さがある。だからそういうチャンスには強いのかなと思いました」

 山本は1年秋から背番号6を背負い、早くから期待されてきた打の柱である。そんな山本を田中監督は「1+1=3のような子」と明かす。それだけ何かをやってくれるのではないか、という期待が膨らむポテンシャルを秘めているのだ。

「1+1=2は普通にやってくれる子として、山本はそれ以上の可能性のある子です。あの場面は、ピッチャーが代わって2番手の子もいきなり140km台が出ていました。それでも怯まなかったのはさすがです」

 チームの大黒柱はエース右腕の寺西邦右だ。寺西も山本に負けないメンタルの強さの持ち主で、山本と共に早くから公式戦でも中心的存在だった。

 寺西の公式戦デビューは1年の夏。初戦でいきなり智弁和歌山と激突するも、その試合の先発マウンドに立った。だが、スイスイと抑えて2回無安打無失点の快投を見せたのだ。

「普通は1年生でいきなり智弁戦に投げるとなると、すごく“ビビる”と思うんですけれど、マウンドでもそんなそぶりは見せなかったし、投げ終わった後も“ちょっとだけ緊張しました”ってケロッとしていて。これは、なかなかいない子だと思いました」(田中監督)

 さらに体の強さも寺西の大きな武器だ。独特のインステップ気味のフォームから放たれるストレートは140kmに届くまでになったが「これからもっと伸びる素質がある」と田中監督は期待する。昨秋は7試合中6試合を完投したが「秋は公式戦が週末だけなので中5日空くのと、コンディション不良で夏休みは投げさせていなかったので、どんな感じかな、と思いながら彼に託していました」と指揮官は理由を明かした。

強豪に公式戦初勝利も「スーッと帰ってきました」

 ただ、その双璧を倒した直後も、ナインは感情を爆発させることはなかった。

「智弁さんに勝った後も、今までの試合の後のようにスーッと帰ってきましたからね(笑)。試合終了直後も、あまり取り乱すこともなかった。田辺が智弁に公式戦で勝ったのは初めてだったみたいです」

 智弁和歌山は和歌山の球児、指導者から見ると、まさに雲の上のような存在だ。

「もう、別格ですよね。色んな奇跡が重ならないと勝てない相手。個々の能力はウチの選手なんて到底敵わないですけれど、野球って何が起こるのか分からないと言いますよね。あの場面で満塁ホームランが飛び出すなんて、誰も思わないでしょうし」

 底知れぬ力が、76年ぶりの春を呼び込んだことは間違いない。

 和歌山県は39校(昨夏時点)が県高校野球連盟に加盟する。全国的には学校数の少なさが目に留まる。

 私学は智弁和歌山、高野山、初芝橋本、近大新宮、慶風、和歌山南陵の6校のみで、公立高校がほとんどを占めるが、79年に公立高で唯一春夏連覇を達成した箕島、春夏計3度の全国優勝を誇る桐蔭、夏に2度日本一となった向陽など名門校が中心となってしのぎを削り、実力差は大きくない。

 広域な県土には少年野球の盛んな地域も多く、毎年、県立高校に好投手が点在している。ただ、近年は少子化の影響で、特に紀南地域の公立高校の部員の少なさが目立つ。

「僕は12年、田辺の監督をやっていますけれど最初の頃は1学年で20人くらいはいたんです。それが、4、5年前から“ここから大変なことになるよ”と少年野球の関係者から言われていたんですけれど、本当に最近は一気に子どもの数が少なくなって。1学年でなかなか10人を超えなくなってしまったんです」

「社会が変わるのなら、野球の指導も変わらないといけない」

 現チームも、女子マネージャーを除けば1、2年生は各9人しか在籍していない。1学年に20人ほどいた時代に慣れていた指揮官は、一気に減った部員数に対しどう対処すればと当初は戸惑ったが、今はプラス思考をまじえて選手たちと関わる。

「少なくなった分、1人1人の子供たちにエネルギーを注げる。技術指導もそうですが、選手らの動きに目が行き届くようになりました。まあ、あまり少なすぎるのも紅白戦ができなくなるので良くないですけれど」

 その中で田中監督は、ずっと抱いていたことがあった。

「20代の頃から僕は監督をやっているのですが、昔の僕は結構厳しい監督だったと思います。当時はそれでも何も言われない時代でしたし、周りもそういう監督さんが多かった。でも、今は時代が変わって、野球に関わらずスポーツを指導する監督のあり方って問われているじゃないですか。僕は今、生徒指導部長もやらせてもらっているんですけれど、社会が変わっているのなら、野球の指導も変わっていかないといけないと思ったんです」

 ひと昔前ならば、怒鳴って怒って、それでもはい上がってこい、というスタンスでもまかり通っていた。でも、今の時代はそれでは子供たちはついていけず、心にも響かない。それならば指導する大人が変わらなければならない。これは今回の21世紀枠選考の決め手となった事柄でもあるが、田中監督はこれまでの姿勢を大きく変えたことがある。

「定期的に面談をすることももちろんですが、選手らとのコミュニケーションは大事にしています。一方的に話すのではなく、1対1で話すようにはしていますね。

 一時期、僕は3年間ほど教育相談と言って不登校の生徒とカウンセラーと一緒になって話を聞くこともありました。気になる生徒がいたら、どういう声掛けをすればいいのか、カウンセラーさんにヒントをもらってきました。

 カウンセラーさんが、がっつり教育の場にいるのではなく、連携しながら、という感じです。カウンセラーと不登校の生徒という繋がりも大事ですが、部活動でも先生らが直接アドバイスをもらって指導の場に生かすのもいいのではと思ったんですね」

 子どもの数が減っているとはいえ、時代の多様化、社会の複雑な絡み合いから、子どもたちの感受性も様々だ。そこに沿った指導をしていくには、指導者も色々な受け止め方が必要なのではないか。田中監督はそう胸に留めながら選手たちに向き合っている。

「元気がない子は、表情を見れば分かりますからね。家庭とか、勉強のことで何かあったのかなと。こちらが感じたらすぐに話し掛けてあげるとか、そういう心構えは大事だと思います。こちらがアップデートしていかないといけない。新しいやり方をする中で、勝てる方法を今は模索しているところです」

縛られず、自由に「やり切る」田辺スタイル

 かつては監督を見れば顔色をうかがって、いそいそと行動する選手がいたが、田辺の選手は指導者がいても、実に生き生きとしている。頭髪も自由で個々の表現も様々。縛られず、なおかつ自分たちができることをやり切る、というスタンスが田辺には隅々まで浸透している。

 同じ紀南地区から、耐久高校も一般枠で出場を決めている。

「耐久は今まで練習試合もよくやる仲ですし、ライバル意識なんてとんでもないです。夏の大会前になったら負けたくないというのはありますけれど……でも、一緒に頑張ろうとは言うてます」

 耐久は部員が19人だ。ちなみに耐久の井原正善監督も「秋のウチの選手らは常に冷静だった」と、4強まで勝ち進んだ近畿大会を振り返っていた。

 わずかな人数でも、“鋼のメンタル”が秋は何にも敵わぬ大きな力になった。

 そんな無限の力を従えた野球王国・和歌山が生んだ2校が、今春いよいよ大舞台に立つ。

文=沢井史

photograph by Fumi Sawai