かつては甲子園の常連ながら、近年は強豪・聖光学院の高い壁に阻まれてきた学法石川高が今春のセンバツ甲子園への出場を決めた。20年以上、聖地から離れていた古豪がカムバックできた裏には、かつて独特の指導法で旋風を巻き起こしたある監督の存在があった。(全2回の2回目)

 昨年の夏。甲子園を熱狂させたのは慶応義塾だった。アルプススタンドを埋め尽くす、グレーのシンボルカラー。ブラスバンドの旋律に乗せて大音量で奏でる『若き血』。グラウンドの選手を援護する彼らの応援はさながら大波のようで、相手チームを飲み込み、そして甲子園をも味方につけた。

 学法石川の監督・佐々木順一朗にとっても電話越しだったとは言え、慶応義塾の耳をつんざくほどの大声援は十分すぎるほど受け取ることができた。

教え子たちによる「甲子園決勝戦」

「自分たちの教え子が決勝にいったな」

 声の主は、慶応義塾の前監督である上田誠だった。

 グラウンドで指揮する慶応義塾の森林貴彦は彼の教え子であり、仙台育英の須江航も同校での選手時代は佐々木から学んだ監督である。

 佐々木が懐かしむように話す。

「応援に行っていた上田さんが、アルプススタンドからわざわざ電話してくださって。あちらは慶応で私は早稲田の出身ということで前からライバル心はありますけど、お互い認め合う仲というか、親友でもありますから」

 その両校が激突した決勝戦を慶応義塾が制し、実に107年ぶりの全国制覇を果たした。

 仙台育英を率いて2001年春と15年夏に準優勝。2度の「あと一歩」を経験している佐々木は、この決勝を通じて高校野球が移り変わる様が自分のなかに入ってきたという。

「一番の分岐点は一昨年に育英が優勝したことですけど、去年に慶応が優勝して。僕自身、長年そこを目指してきて、2回、決勝に進んで果たせなかったことを両校が果たしたことで、心のなかで『何か時代が変わったんだな』と思わざるを得なかったです」

 佐々木はそう言って、少し自らを嘲るような笑みを浮かべた。

 伝統的に選手の髪形は丸刈りではなく、「エンジョイ・ベースボール」を掲げる慶応義塾。日々、選手たちと面談を繰り返してコミュニケーションを図り、データなどあらゆる要素を駆使してチームを底上げする仙台育英。

 上下関係をはじめとする旧態依然とした高校野球のスタイルからすれば、異色とも受け取れる両校の甲子園制覇は、周囲に「高校野球新時代」の到来を印象付けた。

 そんなチームを率いる森林と須江にも当然、バックボーンがある。それが上田であり、佐々木なのである。

「髪、長いなぁ。でも、これでいいんだよ」

 今からおよそ30年前。高校野球でちょっとした「脱・丸刈り」ブームが起きていた。常総学院や天理といった強豪校も実践していたがせいぜい短髪で、1994年夏に甲子園ベスト8となった仙台育英は現在の慶応義塾のように長髪だったことが話題とされた。

 当時、仙台育英でコーチだった佐々木は、ちょうどこの頃から上田との親交を深めていったのだという。

「髪、長いなぁ。でも、これでいいんだよ」

 上田からそんな“お墨付き”をもらったことも、佐々木は今も覚えている。

 互いの親和性は髪形への理解度だけではない。エンジョイ・ベースボールもそのひとつだ。佐々木は公言こそしないが、慶応義塾の理念にこの当時から共鳴している。

「『エンジョイ』の本質は、『楽しむ』とか『遊ぶ』という本来の意味ではないので。『やることをちゃんとやらないと、エンジョイできないよ』というね。そういうことも上田さんと話し合いながら再確認させてもらったこともありました」

 それらを体現し、結果を残したのが01年のチームだった。前年秋の東北大会決勝で仙台育英は東北に0-2で敗北。本来なら2校ある東北地区の一般選考枠としてセンバツ出場校に選ばれる可能性が高いが、決勝に進んだ2チームが宮城県であること、青森の光星学院(現:八戸学院光星)が準決勝で東北に延長戦の末に惜敗といった結果もあり、仙台育英は「センバツ当確」とは言い切れない状況にあった。選手も当然、確信を持てずにいたなか、佐々木だけは違っていたのだという。

 この世代でエースだった芳賀崇はかつて、こんなエピソードを提供してくれた。

「年末に日本エアロビクスセンターの施設に合宿にいったり、センバツ出場校が発表される前にも毎週、関東まで行って練習したり。佐々木先生はセンバツに出るつもりだったし、それを僕らにも伝えたかったんでしょうね」

 芳賀の回想はまさしく、やるべきことをやる――エンジョイ・ベースボールの体現そのものだった。仙台育英はセンバツ出場を果たし、爽やかに長髪を揺らしてプレーした選手たちは準優勝と結果を残した。

「選手の自立」が「エンジョイ」に繋がる…?

 佐々木のエンジョイで際立っていたのは、選手に自立を促すことだ。そのひとつに役割分担がある。

「掃除係」や「用具係」といった一般的なものから、備品を修繕する「DIY係」にグラウンド周辺の緑地などを整備する「園芸係」、ほかには佐々木が苦手な虫を遠ざける役割がいたりと、年々、ユーモアを取り入れながら「係」を編成していたそうだ。

 これも、佐々木なりの指導の一環である。仙台育英時代、選手育成の多様性について尋ねるとこんな答えが返ってきた。

「高校に入るまで、その選手が生まれてからどんな家庭環境で育ってきたかわからないわけです。その『わからない』ことが、僕らにとっては怖い。だから高校で環境を整えてあげないと。

『ダメなものはダメなんだ』とわかってもらう。時には叱ることだってあります。そうやって、何が正しいのか正しくないのかといったことを学んで卒業してもらえたらいいなと思うわけです」

 93年に仙台育英のコーチとなってから長きにわたって人と向き合ってきたなかで、佐々木には人間育成の「その先」がはっきりと見えたのだと言った。

 将来、いいオヤジになれ。

 監督として甲子園通算29勝。2度も日本一に王手をかけた、限りなく勝者に近い敗者を味わったからこそ、これは佐々木にとってブレることのない指導理念となっている。

「極論かもしれませんけど、全国優勝をしたからといって人生が終わるわけではないんです。次の日の朝は、普通に訪れるんです。その後の人生のほうが長い、ということなんですね。

 甲子園で優勝して浮かれてしまって、高校を卒業後に足をすくわれるようなことがあれば、『優勝が仇になって、バカな人生を歩んだ』って周りから思われてしまうわけです。だから、『高校でうまくいかなかったとしても人生は長いんだから、将来、いいオヤジになれよ』と選手に伝えているんです」

 指導するグラウンドが仙台育英から学法石川に移っても、様式が変わることはない。

「いいオヤジになるため」の主体性

 練習試合で踊りながらグラウンド整備をし、遠征に来てくれた相手チームを迎え入れる。「エアロビ係」が流行の曲をチョイスし、軽快なリズムに合わせて選手たちが汗を流す。

 そこには、規律があり、自由もある。

 選手たちは今も、いいオヤジになるため主体性を持って野球に励む。

 キャプテンの小宅善叶が言う。

「順一朗先生は『いいオヤジになれ』という最終目標を提示してくださるんで。自分たちも指導者に頼るばかりではなく考えながら行動できる力を持てたら、一歩ずつ大人になっていける実感はあります」

 33年ぶりのセンバツ。

 学法石川が吹かせる風は懐かしくあり、新鮮だとも感じるはずである。

「自分たちのエキスを、甲子園で出していければいいなと思っています」

 チームを導く佐々木は、穏やかに春を待つ。

文=田口元義

photograph by AFLO