球界を代表する打者であり、捕手であり、監督だった野村克也が亡くなって、4年が経った。野村についてのエピソードは数々あるが、今回は南海時代の野村からドラフト1位指名された鉄腕投手・佐藤道郎に、知られざる野村との思い出を語ってもらった。【全3回の前編/中編、後編も公開中】

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「毎月、赤字だよ」

 2020年2月11日に亡くなった野村克也。戦後初の三冠王に輝いた選手としての実力はもちろんのこと、監督時代に提唱したID野球など球界に残した功績は多大である。

 野村のキャリアは南海ホークスから始まり、1970年から1977年までは同球団で選手兼任監督も務めた。そんな野村の選手兼任監督1年目にドラフト1位として南海に入団したのが、佐藤道郎である。野村が1977年に退団するまで8年間ともにプレーした佐藤に、野村とのエピソードを聞いていこう。

 1947年、東京生まれの佐藤は、日大三高から日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは、4年時に年間16勝を記録し、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを2季連続で獲得する。さらに、アジア野球選手権大会に日本代表として出場し、MVPを受賞するなど華々しい結果を残し、見事南海に1位指名されるのだ。

 その後、佐藤はパ・リーグ初の最多セーブ投手のタイトル(1974年に新設)を獲得するなど、南海ホークスの鉄腕として鳴らす。現役引退後はロッテや中日、近鉄で指導し、村田兆治を復活させ、吉井理人、吉見一起などの投手を育てた名コーチとなる。現在は「毎月、赤字だよ」と野村ばりにボヤきつつ、学芸大学駅前で会員制スナック「野球小僧」を経営している。

「息子さんを1位指名させていただきました」

 佐藤と野村の最初の出会いは、ドラフト会議当日だった。当時のドラフトを佐藤はこう振り返る。

「当時はプロ志望届の提出なんてなかったし、ドラフト会議のテレビ中継もないから、記者から『ドラフト上位にかかりそうな人は家にいてください』と言われました。私自身、ドラ1とは思わなかったですが、東都で連続優勝したし、アジア大会でもMVPだから上位に入れるだろうと思っていました。中野の自宅で待っていたら、南海から1位指名したという電話があり、これから野村監督が直々に挨拶に行くということでした。あの野村克也が来るとあって、両親は『寿司や刺身を準備しないといけない』と大慌てでしたよ」

 学生服姿の佐藤に対し、スーツ姿で現れた野村は当時34歳。この4年前には三冠王を獲得し、南海の正捕手として球界を代表する選手となっていた。佐藤家にやってきた野村は両親に向かって「来年から監督になる野村克也です。息子さんを1位で指名させていただきました」と挨拶した。

「とにかくプロになりたかったから、行きたい球団は特になかったです。強いて言えば、西鉄ライオンズと広島カープは東京から遠いから、大阪までの球団ならいいなと思っていたくらい。だから、南海だと聞いて喜んで行ったようなものです。挨拶に来た野村さんには、三冠王獲った割に小さな人だなあと感じたのを覚えています。しかし、キャンプでユニフォーム姿の野村さんを見たときは非常に大きく見えましたね。これが、スター選手のオーラなんだと実感しましたよ」

野村監督「知らない人と飲みに行くな」

 晴れて入団の契約を交わした佐藤。契約金は1700万円、年俸は180万円だった。

「私がかかったドラフトがあった1969年に、黒い霧事件が発覚しました。それまで、ドラ1だったら契約金3000万、4000万は当たり前だったらしいですが、事件の影響で新人の契約金や年俸が絞られたんです。私はお金で揉めたくなかったし、仕方ないかと思ってサインしました。私自身、八百長問題について、あまりよくわかっていなかったですしね」

 黒い霧事件とは、プロ野球関係者による金銭授受を伴う八百長事件である。事件が発覚した後も、野球賭博の空気は関西に色濃く残っていた。南海へ入団し、大阪でプレーを始めた佐藤にとっては、様々なカルチャーショックがあったという。

「入団早々、野村監督やフロントからは『知らない人と飲みには行くな。飲み屋で知らない人にご馳走にはなるな』と厳命されましたよ。相手が賭けをやっていて、一緒に写真でも撮ったものなら球界を永久追放されるような時代でしたからね。綺麗な女性が飲み屋で声をかけてくるのも、警戒してました。バーで飲んでいると、店員から『あちらのお客さまからです』と酒をよこされることもありましたね。お酒をくれた人を見てみると、いかにもという風貌。そういうときは同じ酒をお返ししていました。そうすれば、ご馳走になったことになりませんから」

野村監督「お前、ゼニもらってんのか?」

 そうした野球賭博に巻き込まれるリスクが潜むのは、夜の街だけではない。

「寮に帰っても、『明日の先発は誰や?』と知らない人から電話がくることもありました。先発投手がわかれば、賭けるほうとしては勝敗や点差が読みやすくなりますからね」

 シーズン中のある試合では、ブルペンで肩を作っている佐藤に向かって、スタンドから「おい、佐藤! 初球はボールから入れよ!」と声が飛んだことがあったという。

「さすが、大阪のファンは野球に詳しいんだなあと感心していたら、先輩から『バカ野郎、あれは初球がストライクかボールかを賭けてるんだ』と教えられました。5回終了後のグラウンド整備中に、外野席で大勢の警察官が観客たちを追いかけていたこともありました。それも、賭博の現行犯だったらしいです。そういう光景は日常茶飯事でした」

 野球賭博の横行が、多くのファンに可視化されていた時代。試合の行方を握るピッチャーの一挙手一投足には、常に厳しい目が向けられた。

「試合中にフォアボールを出そうものなら、スタンドから『カネもらってんのか!』とすぐにヤジが飛ぶ。キャッチャーだった野村さんが、『ミチ、お前、ゼニもらってるんちゃうやろな』とマウンドまで脅しに来たこともあります。まあ、野村さんも私のことを信用してくれてるから、本気ではなく茶々を入れにきたんでしょうけどね」

 野村が選手兼任監督に就任して1年目のドラ1投手である佐藤。その背番号14は、野村がみずから思案して決めたというから、佐藤はさぞかしかわいい存在だったのだろう。フィールドにおいても、2人のバッテリーには隙がなかったようで、「野村さんとオレが組んだときは、福本豊もまず走れなかった」と、昭和の盗塁王を引き合いに出して佐藤は当時を懐かしむ。

 続く「中編」の記事では、野村の指揮官ぶりを聞いていこう。

<続く>

文=沼澤典史

photograph by AFLO