サラリーマンボクサーがいよいよ世界に挑戦する。3月3日(現地時間2日)、米国ニューヨークで開催されるIBF世界フェザー級タイトルマッチで、王者ルイス・アルベルト・ロペス(メキシコ/30歳)に挑む阿部麗也(KG大和/30歳)。勝てば、2010年の長谷川穂積(WBC)以来となる日本人のフェザー級世界王者誕生となる。決戦を前に、異色の経歴を持つ男のボクシング人生に迫った。《全2回の前編》

 作業用のヘルメットを深々と被り、ゴーグル姿で溶接作業を淡々と行う。この様子だけ切り取ると、世界戦のタイトルマッチに挑むボクサーだとは到底想像がつかない。

 だがこの男、「天才」を自称し、サラリーマンとして働きながらニューヨークで初の世界チャンピオンを目指す、元WBOアジアパシフィック・フェザー級王者である。

 阿部麗也、30歳。世界戦を半月後に控えていても、いつもと変わらず工場のライン作業で汗を流していた。減量も佳境に差し掛かり、昼食は食堂の150円のかけそば一杯。そんな折の取材だっただけに、筆者も神経を尖らせ対面したのだが、阿部はどこか達観したかのようにこう言うのだった。

「どうせ練習時間は限られてますから(笑)。普段通りの生活をして、日常の延長線上で世界に挑む。それを大切にしています。プロボクサーは注目してもらってナンボなので」

世界を目指すサラリーマンボクサー

 ここは、神奈川県・藤沢市に位置する「プレス工業」の工場。トラックなどの自動車の精密部品を製造する工場の組立1課が阿部の職場だ。一部のトッププロを除くと、大半のボクサーは働きながらリングに上がる。サラリーマンボクサー自体は決して珍しくない。しかし、阿部のように世界タイトルを争うような選手となれば、話は別だ。職場の理解や、周囲を巻き込みボクシングに打ち込める環境も勝ち取る必要があった。

「第一印象は、ちょっとヤンチャな今どきの若い子。でも責任感が強くて仕事は真面目という、ギャップが印象的でした」

 阿部の上司で、入社から12年間を見守ってきた黒川和作さん(46歳)は出会いをこう回顧した。

 黒川さんは、阿部の最大の理解者でもある。今でこそ会社も「プロボクサー阿部」に全面的に協力しているが、当初は違った。

 阿部が勤務する藤沢工場では毎日2000人近い人々が行き交う。「安全・安心」を原則とした製造業において、危険と隣り合わせのボクシングという競技は、なかなか理解が得られないのも必然だった。ファイトマネーは副業扱い、勤務時間外の怪我は労災扱いにはなるのか。勤務規定から外れた、異例づくめな事例も多かったのだ。

 だが、黒川さんは“親心”からデビュー戦を観戦したことを契機に、その魅力に惹き込まれていく。

 職場とは異なる部下の空気感に触れ、今まで経験したことがない不思議な感覚を覚えたことを記憶している。何より、リング上で自己を表現する阿部という一人のボクサーのファンになった。以降、ほぼ全ての試合を現地観戦する黒川さんが先導し、応援団の数は一人、また一人と増えていき、今やその数は50人を超えた。黒川さんは、時に会社との間に入り、ボクシングに打ち込めるような環境づくりも提言している。

 その理由は、朝8時から残業を含めて19時頃までフルタイムで働く阿部の勤務態度にあった。

「私からすればあいつも“怪物”」

「阿部は手先が器用で、他の人の半分くらいの時間で仕事をこなしてしまう。試合翌日でも、何事もなかったように出社し、フルタイムで働いていますから。心配で休めと提案しても、『迷惑をかけられないので』と断るんです。だから計量日と試合当日くらいです、あいつが休むのは。

 一度、2018年に横浜アリーナの井上尚弥選手対パヤノ戦を阿部と一緒に観戦しに行ったんです。素人の私でも圧倒された70秒KOでしたが、あいつは『あの舞台に立ちたい』と言った。その時は想像もつかなかったですが、あれよあれよという間に本当に世界戦まできてしまいましたね」

 今回はニューヨーク興行ということもあり、阿部は試合の10日前から休暇をとった。阿部にとって人生初の長期休暇を今回の世界戦に当てた。もちろん有給休暇を消化して、だ。間近でその努力を見てきた黒川さんは、こうも続ける。

「世界戦って、ボクサーにとっては念願の舞台でしょ。でも、阿部は普段と全く変わらずひょうひょうと仕事をしているんですよ。私からすれば、あいつも十分“怪物”です」

 福島県・耶麻郡で生を受けた阿部は、小学生の頃に、将来はプロボクサーにという夢を描いた。しかし、福島の片田舎でボクシングに打ち込む環境は限定的で、『スラムダンク』を愛読する少しヤンチャな学生生活を送る。部活では陸上やバスケットボールに打ち込みながら、ピンポン球を相手にシャドーやフットワークをする程度だった。進学した会津工業高校ではボクシング部に進むも、高校通算で7勝8敗。インターハイ、国体、選抜にこそ出場したが、全国の舞台ではわずか1勝しか出来なかった。阿部が述懐する。

「自分のイメージと現実のギャップはめちゃくちゃありましたよ。練習もキツイし、合宿なんか逃げ出したくなるくらい辛かった。これだけやったから全国優勝くらいはいけるでしょ、と思っていたら、全く勝てないわけです」

 それでも阿部の将来性を高く評価する関係者も存在し、実際に大学のボクシング部から声はかかった。だが、阿部は断りを入れ、故郷を離れて「プレス工業」へ就職する道を選んだ。

「高校レベルで勝てない人間が、プロで上を目指せないじゃないですか。それならボクシングはキッパリ辞めて、就職して、誰も自分を知らない都会の土地で遊びたいな、と」

 上京してから1年間は、会社で寮生活を送った。夜はネオン街に足を運び、惹き込まれたこともある。仕事にも慣れ、友人との飲みや、ギャンブルなどにいそしむ日々は、スポーツに打ち込んできた18歳にとっては、目新しい経験ばかりだった。

 しかし、心の奥底に、わずかな引っかかりがあったのかもしれない。本人曰く、軽い気持ちだったというが、フィットネス目的で会社の同僚3人と大和市にあるジムを訪れたのだった。

片渕会長「私はめったにプロを薦めない」

 阿部が所属する「KG大和ボクシングジム」の会長を務める片渕剛太(50歳)は、阿部と同様にかつてはサラリーマンボクサーだった。花形ジムに所属し、フェザー級で最高ランクは日本8位。自身にして「大した才能はなかった」というボクサー人生だったが、ボクシングへの熱量から「日本一敷居の低いジム」を標榜し、2007年にジムを開業した。それだけに働きながらトップレベルを目指す難しさを深く理解している。

 12年前、阿部との出会いについて声を弾ませる。

「ちょっと軽くて、明らかにボクシングを本気でやる感じではない。でもリングにあがると、日本ランカー3位とも遜色なくやれちゃう。自分の経験を踏まえて、私はめったにジム生にプロを薦めないんですよ。しかし阿部のスパーをみて、これは上を目指せる素材だ、と興奮しましたね。阿部と一緒にきた同僚の一人も、今では日本ランク1位となった。チャンピオンを一人も出せていなかったジムが、阿部との出会いで急に動き始めたんです」

 アマチュアでは芽が出なかった阿部だが、プロの世界はたしかに水が合っていた。福島でキャリアを積んだ阿部にとっては、自身の現在地を測る明確な指標がなかった。自ずとプロの世界は見上げた存在であると、思い込んでいたきらいもある。しかし、スパーリングで日本ランカーと拳を合わせたことで、こんな思いが芽生えた。

「あれ、俺、もしかしていけちゃうんじゃない」

 きっかけはスパー中の些細な出来事だったが、本格的にプロを目指したのは、そんな思込みが取っ払われたからだった。

エリートじゃない天才がいても面白い

 独特のリズムを刻み相手を惑わせる変則的なサウスポースタイルの根幹も、当時のこんな気づきの影響がある。

「スラムダンクの桜木花道って、たぶん漫画を読んだ人は天才という印象を受けない。でも、素人が体育館シューズでめちゃくちゃ動けたり、『なぜそこに桜木が!』みたいな感じで行動の予測が出来ない。エリートじゃなくてもそういう“天才”がいても面白いじゃないですか。なんとなくですが、そういうボクサー像を思い描いたんです」

 19歳でプロになると決意し、これまで週1だったジム通いは、週6に増えて日常になった。上京する際に目的の1つだった夜遊びも、いつしか魅力に感じることはなくなり、ひたすらボクシングに打ち込んだ。

 1年間みっちりトレーニングを積むと20歳でプロデビュー戦を完勝。だが、派手に「天才」とトランクスに刺繍を刻み臨んだ2試合目であっさり敗れた。自信は勘違いだったと気付かされたが、どこか安堵もあった。

 翌年には敗戦をバネにし、フェザー級で新人王に。しかし、またも次戦でヨネクラジムの草野慎悟に判定の末、敗れ去ったのだ。これから、という時に敗北を喫する。そして、その度に成長を遂げる。阿部の軌跡は、自身が愛してやまない桜木花道に重なる部分もあった。

 その後、11連勝で掴んだ日本タイトル戦で引き分けたあと、次戦のタイトルマッチで佐川遼(三迫)に完敗。あと1勝と迫りながらも、阿部の、そしてジムの念願でもあったチャンピオンベルトには届かなかった。私生活では結婚し、2児の父にもなっていた。この敗戦を機に、阿部は自身の進退についても頭を悩ませる。阿部の回想。

「大事なところで勝てないのはサラリーマンをやりながらだからじゃないか、と思ってしまう自分もいた。ジムも大手に移籍する方が、チャンピオンを目指すには近道ではないかとも考えました。そして、会社を辞めてボクサーに専念する決意を固めたんです」

 上司にも退職の意志を伝え、周囲に報告の連絡の準備をしていた。そんな折に、ある一本の電話が阿部を踏みとどまらせるのだった――。

(後編に続く)

文=栗田シメイ

photograph by Kiichi Matsumoto