外国出身力士として初めて横綱となり、貴乃花、若乃花の“若貴”らとともに平成初期の空前の相撲ブームを支えた曙太郎さんが、心不全により都内の病院で亡くなった。54歳だった。

8年前の春の日、ライバル貴乃花の激励に訪れ…

 訃報は大相撲一行が春巡業で関西から中部、北陸を回って静岡県御殿場市に入った4月11日にもたらされた。今年は天候不順により桜の開花がずれ込み、ようやく訪れた麗らかな日差しが心地よかったのもつかの間、中旬に入るとうっすらと汗ばむほどの陽気となった。

 今から8年前の2016年(平成28年)4月16日、春巡業が行われた群馬県高崎市も初夏を思わせるような気候だった。爽やかな春陽が窓から差し込む会場に詰めかけた観客は、この日の“サプライズゲスト”の登場にどよめいた。2メートルを超す長身の大男が土俵に上がり、スタンドマイクの前で挨拶をすると大歓声が沸き起こった。

「土俵に上がった瞬間、ドキドキして昔の大一番を思い出したよ」と興奮を隠しきれなかった元横綱曙。かつてのライバル貴乃花がこの春から巡業部長に就任したとあって、花束を持って激励に訪れたのだった。

「(同じ土俵に上がるのは)彼の引退相撲以来かな。でも、見合ってなかったから」と語ったように、2003年(平成15年)夏場所後の貴乃花引退相撲の際は、断髪式で鋏を入れただけで“対面”は果たしていない。両雄が土俵の上で面と向かったとなると「2000年(平成12年)九州場所の14日目以来だよ」と第64代横綱ははっきりと覚えていた。

 同場所は曙が11回目となる最後の優勝を成し遂げた場所で、寄り切りで勝ったこの一番が二人の最後の対戦となった。ともに初土俵を踏んだ1988年(昭和63年)春場所以来、両者の優勝決定戦を含めた通算対戦成績は25勝25敗と相譲らない全くの五分。当初はハワイからやってきた規格外の青年が幕内の対戦成績で大差をつけ、そのまま角界の頂点へと上り詰めた。

兄弟対決の夢を打ち砕いた「伝説の巴戦」

 横綱3場所目の1993年(平成5年)名古屋場所千秋楽は、13勝2敗で曙、大関貴ノ花、関脇若ノ花(四股名は当時)の3人が並び、優勝決定巴戦になった。当時は“若貴ブーム”が最高潮に達していた時期。ファンのみならず、日本中が兄弟対決を望んでいたと言っても過言ではなかった。対戦を決める抽選の結果、貴ノ花が控えに回ったが、当時24歳の若き一人横綱は兄弟もろとも土俵下まで吹っ飛ばす圧勝で、国民の淡い夢をも打ち砕いた。

 圧倒的なパワーと長いリーチを生かした強烈なもろ手突きを武器に、曙は「横綱初優勝」を遂げると、この場所から3連覇を達成。振り返ってみれば、この時期が全盛期と言えた。

 不当な見送りもあり、ライバルに遅れること約2年。横綱に昇進した貴乃花は1995年(平成7年)秋場所から決定戦も含めて7連勝するなどその差を縮め、優勝回数も追い抜いていく。その後の曙は両膝に爆弾を抱え、優勝からも長らく遠ざかる苦しい土俵が続いたが、両者の対決は優勝争いにかかわらず、常に手に汗握る熱戦となりファンを大いに魅了した。

相撲に打ち込んだ“かけがえのない青春時代”

 その両雄が高崎の土俵で互いに満面の笑みで並び立ち、報道陣らの写真撮影に応じていた。この季節の陽気にも似た和やかな雰囲気に包まれてはいたが、そこは幾多の死闘を繰り広げてきた二人にしか共有できない空間であり、何人も侵すことのできない“聖域”のようでもあった。

「巡業を旅行のつもりでいて、東京に帰って2週間で体を作ろうとするからケガをする。自分たちは巡業でいろんな人と稽古をクタクタになるまでやって、毎日頭を洗っていたよ。貴乃花親方のもとでちょっとでも変われば、もっともっといい相撲になると思う」

 その口ぶりは角界の後輩たちへの苦言などでは決してなく、巡業部長の要職に就いたかつての盟友へのエールであり、「ライバル打倒」のために寝食を忘れて相撲に打ち込んだ、かけがえのない“青春時代”に思いを馳せているようでもあった。

「自分は協会を離れた人間だけど、相撲は大好きなんでいつも応援している。力になれることがあれば、遠慮なく言ってほしい」

 奇しくもこのちょうど1年後の春、体調不良を訴えて緊急入院となり、以来、7年もの長い闘病生活の末に逝去。最期まで「相撲愛」を貫いて天国へと旅立った。

文=荒井太郎

photograph by JIJI PRESS