あの熱狂は何だったのか。

 2003年11月6日、列島は「曙、K-1参戦」というニュースに埋めつくされた。“若貴”とともに相撲ブームを牽引した元横綱が、相撲以外の格闘技に挑戦するなど誰も想像できなかった。世間は「嘘だろ?」と衝撃を受け、曙の動向に自然と引き込まれていったのだ。

「曙さんを倒すと言っている奴がいます」

 後年の曙の証言によると、大会の仕掛け人だった谷川貞治氏との話し合いは、ボブ・サップ戦発表のほんの数日前の出来事だった。

「曙さんを倒すと言っている奴がいます」

 それが谷川氏の殺し文句だった。最初からはっきりと名前を出されたわけではないが、相手が誰なのかを察することはできた。勝負師として胸が騒いだ。相撲で培ったものが他の格闘技でどこまで通用するのか――それを試したいという思いが、200kgを超える巨体を後押しした。

 契約金は大晦日の2試合で1億5000万円だったという。契約通り、曙は翌2004年の大晦日にはホイス・グレイシーとの“相撲vs.柔術”の異次元対決を行っている。

 顧問弁護士は「安い。その数倍はもらうべきだ」と難色を示したが、曙は「お金のためにやるわけじゃない。僕の価値がこの金額と思われているんだったら、それでいいじゃないか」と納得し、金銭的な駆け引きを一切することなく契約書にサインした。周囲の思惑とは裏腹に、曙の格闘技挑戦ははちきれんばかりの夢とロマンに溢れていた。

 2003年大晦日の対戦相手がボブ・サップだったことも、大衆の関心を集めるうえで重要なファクターだった。それはそうだろう。対戦相手のサップは当時、K-1とPRIDEをツートップとする格闘技人気を牽引する存在だったのだから。

 筆者の目に、この一戦は映画『キングコング対ゴジラ』と重なり合った。テクニックなど二の次。超ド級のスーパーヘビー級同士が向かい合うだけで絵になるではないか。

 このカードが発表されたことで、曙は横綱時代以上の“時の人”となる。朝から晩まで追いかけるカメラクルーに辟易し、声を荒らげることもあった。週1回の休日は取材にあてられ、休む間もなかった。ある知人は単独取材をするため、名古屋から曙を乗せたタクシーに同乗し、東京までの道すがら取材を成功させた。曙の独占取材ができるなら、300kmを超える距離をタクシーで移動しても経費で落ちる、狂った時代だった。

敗北続きでも…曙こそ格闘技ブームの象徴だった

 後にも先にも大晦日のキラーコンテンツとして、これ以上のマッチメイクはないのではないか。老若男女を問わず楽しめる、わかりやすさを最大限にデフォルメした一般大衆向け格闘技の完成形だった。

 案の定、サップvs.曙は同日の絶対王者であるNHKの紅白歌合戦に一撃を食らわせる。瞬間最高視聴率43.0%と、同時間帯の紅白を超えることに成功したのだ。

 しかしマッチメイクの成功とは裏腹に、曙はサップの豪腕の前に1ラウンドKO負け。夢とロマンは木っ端みじんに打ち砕かれた。曙は大きなショックを受けたが、高視聴率を叩き出した業界関係者はみな喜んでいたという。テレビ格闘技の現実を目の当たりにした思いだった。

 その後も強豪とのオファーが次々に舞い込んだが、曙はチャレンジ精神を忘れず全て受けた。そのせいで黒星が先行した。2004年9月のK-1でレミー・ボンヤスキーのハイキックで大の字になった場面は、横綱時代の曙を知る者にとってショック以外のなにものでもなかった。

 その翌年、韓国で行われた『K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL』で念願の初勝利をあげたとき、筆者もちょうど現地で取材していた。大会後、現地の関係者に食事に連れていってもらうと、偶然にも同じ店で曙も食事をしていた。しみじみと勝利の味を噛みしめるような笑顔が印象的だった。

 もし現在のBreakingDownのように、狭いケージ内かつ短時間で決着がつく闘いの舞台があったら、曙はもっと活躍できていたのだろうか。

 とはいえ、筆者は思うのだ。サップと初めて闘ったころの曙こそ、2000年代の格闘技ブームの象徴だったのではないか、と。

 2003年はこの一戦をメインに組んだナゴヤドームの『K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!』だけでなく、関東地区ではさいたまスーパーアリーナで『PRIDE SPECIAL 男祭り 2003』が、関西地区では神戸ウイングスタジアムで『INOKI BOM-BA-YE 2003』が行われ、いずれも地上波で同日中継されるという未曾有の視聴率戦争を繰り広げていた。

 結果はカードが出揃った時点である程度見当がついていたが、やはりサップvs.曙を前面に押し出したK-1が平均視聴率19.5%を叩き出し、圧勝した。世間一般に格闘技を浸透させたという意味で、曙は格闘技ブーム最大の功労者のひとりだった。

サップの告白「『曙を倒す』なんて言っていないよ」

 衝撃のデビュー戦から約10年後、曙はサップと再会を果たす。そのとき「最初は君のことが嫌いだった」と明かし、ことの経緯を説明すると、サップは全てを理解したかのような微笑を浮かべながら答えた。

「一言も『曙を倒す』なんて言っていないよ。僕も対戦相手の名前を聞かされていなかったんだ」

 さらにその後、曙は2015年12月31日のRIZINでサップとの再戦に挑んだ。結果は試合中の出血による負傷判定負け。リベンジはならなかったが、試合後はふたり揃って記者の前に現れ、笑顔で会見に応じた。

 サップは「曙は前よりもガンガン前に来たし、身体も絞れていたし、パンチも強くなっていた」と宿敵の成長に目を細めた。

 旗揚げ間もないRIZINにおいて、両者の再戦は認知度を高める“ブースト”として機能したはずだ。振り返ってみれば、曙は1993年に横綱に昇進したときも5場所連続で横綱空位が続いていた。“若貴の同期にして最強のライバル”というヒール的な役どころだったとはいえ、相撲界の救世主となったという見方もできる。

プロレス界にも貢献…“人生の横綱”曙の生き様

 そういった意味で、大相撲時代と格闘家時代は相通じるものがあるのではないか。いや、格闘技と並行するように2005年から始めたプロレスでも、曙は救世主というべき立場だった。

 というのも、K-1やPRIDEの台頭と同時にプロレスの人気は急落。プロレスラーのMMA挑戦は話題になったが、桜庭和志と藤田和之を除いて目立った活躍を見せられる選手がいなかったことも、その流れに拍車をかけた。

 格闘技で大きな話題を振りまいた曙がプロレス界で救世主になるというのはなんとも皮肉ではあるが、元横綱という肩書きは絶大だった。曙が出場する大会はいやがうえにもファンの注目を集め、低迷していたプロレスの観客動員に貢献した。

 得意技は巨体を最大限に利用した強烈なボディプレス。曙以上にこの技がハマるレスラーはいなかった。キックやMMAをやるよりも、相手を圧殺する方が“らしさ”が際立っていた。

 曙の逝去が報じられると、各団体がこぞって哀悼の意を表明した。苦しいときに助けてもらった恩を、どの団体も忘れてはいなかったのだ。

 大相撲、格闘技、そしてプロレス。ジャンルに関係なく、それぞれの分野で一時代を築き上げた曙こそ、“人生の横綱”だったのではないか。

文=布施鋼治

photograph by Essei Hara