2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。箱根駅伝インタビュー部門の第4位は、こちら!(初公開日 2024年1月6日/肩書などはすべて当時)。

「箱根だから頑張れました」。現在は中国電力で社業に専念する出岐雄大さんは、Number Webのインタビューにそう答えた。青山学院大学の絶対的エースとして箱根駅伝で活躍し、マラソンでも好結果を残した陸上界の新星が、大学時代に燃え尽きてしまった理由とは。すれ違う周囲の期待と自身の思い――知られざる葛藤に迫った。(全3回の2回目/#1、#3へ)

出岐雄大は“すべてを出し切るランナー”だった

 私は学生時代の出岐雄大さんも取材しているが、その当時、原晋監督は彼のことをこんな風に評価していた。

「出岐は、果汁100パーセント。練習でもレースでも、力の限りを出し切る。つねに自己ベスト以上のものを出してきますからね」

 試合になれば、持ちタイム以上の力を発揮する。相手が誰であろうと、萎縮することがない。そんな速さと勝負強さを兼ね備えた選手を、原監督はよく「駅伝力がある」という言葉で称えるが、出岐さんがまさにそうだった。

 2年生の時の箱根駅伝「花の2区」での11人抜き、3年生の時の「9人を抜いての2区区間賞」獲得。エースの活躍に引っ張られるようにして、青学大はシード校の常連となっていく。その頃にはもう、はっきりと大黒柱としての自覚を持っていたという。

「自分が強くなって、青山を強くしたいっていうのは、もう2年の終わり頃には自然と考えるようになってました。大学の友だちとかも本当に応援してくれましたし、陸上どうこうよりも、青山を有名にしたいなって。『箱根になったら走れる』という感覚もその頃からあって、試合当日になるとスイッチが入るんです。やっぱり前に選手が見えたら全部抜きたいなと思いますし、当時はそんなに強くなかったので、一つ前の区間がそこそこ悪い順位で来てくれたのも大きかった(笑)。ただ、そういう風に思えたのって箱根だけかもしれないです。私だけの感覚かもしれないですけど、箱根だから頑張れました」

 箱根駅伝は小さいころからテレビで見ていた。陸上を始めてからは、より熱心に見るようになった。いざ自分がその場所に立って見ると、華やかさは想像以上だった。家族は4年間、長崎から応援に足を運んでくれた。自分が良い走りをすれば、みんなが喜んでくれた。振り返れば、その充実感こそが辛い練習を乗り越えられた原動力だった。

進路選択時の葛藤「それ以外の道がなくなっていった」

 そう考えると、あのマラソンは、出岐さんにとってどんな意味を持っていたのだろう。

 箱根駅伝の好走から2カ月後、大学3年の3月に自ら志願して初マラソンに挑んだ。びわ湖毎日マラソンで2時間10分02秒をマーク。これは当時の学生歴代3位に相当する好タイムだった。マラソン適性を示したことで、周囲の期待はさらに高まっていったが、出岐さんはこの後、「大学4年間で初めて」という足の不調に悩まされることとなる。

 足に力が入らない状態が続き、期待に応えることができない。少し良くなると、また無理をして調子を崩す。悪循環の始まりだった。

「大学最後の1年間はずっときつかったですね。体の調子も上がってこないし、気持ち的にも乗ってこないというか……。10月の出雲駅伝ではなんとかアンカーを務めて、初優勝のゴールテープを切ることもできましたけど、最後の箱根はけっこう厳しいものになるのはわかっていました」

 4年生になれば就職活動も本格化する。駅伝だけでなく、マラソンを好走したこともあり、選手として採用したいという企業は引く手あまただった。その中で中国電力を選んだのは、やはり原監督のプッシュが大きかったからだ。

「卒業後に競技を続けるというのが当時の自分の中では予想外のことで……。ある意味、周囲の期待に応えたくて、それで決めたところはあるんです。自分の意思じゃなかった、というと人のせいにしちゃうようで嫌なんですけど、周りからも監督からも、『実業団で走ってみれば良いじゃないか』と勧められて。それ以外の道がなくなっていった感じでした」

 元々は数学教師になりたいという夢があったが、陸上に打ち込む過程で教職課程を修めることは諦めざるを得なかった。大学生とはいえ、まだまだ社会の実情を知ることは難しい。恩師の勧めに従いながらも、葛藤を抱き続けていた。

「走ることの面白さが最後までわからなくて…」

 周りから見れば、出岐さんは陸上界に現れたニュースターであり、低迷する男子マラソン界に新風を吹き込む存在に映っていたはずだ。卒業後の進路も大手実業団チームに決まって安泰に見えたことだろう。だが、実像は大きくかけ離れていたという。

「正直、走ることの面白さっていうのが最後までわからなくて……。箱根については小さいころから見ていたし、大学で箱根を目指すというのも自分で決めたことだったんですけど、最初は4年間のうちに1回でも出られたら良いくらいの気持ちだったのが、思いがけず1年生から出られて。1度出ると今度は4回出たいなと思って、それが目標になったんですね。でも、それ以上走りたいかと言われたら、次の目標がなかなか見えてこなかったんです」

 幸か不幸か、出岐さんは周囲の期待を上回る早さで成長した。初めのうちは周囲の期待に応えられることが嬉しかった。だが、チームのエースとなり、陸上界の期待を背負うことで、逆に将来の選択肢は狭まっていった。期待に応えようと努力すればするほど、陸上一本に道が絞られていく。その状況は本人にとって辛いことだっただろう。

「おっしゃるように、自分が頑張ることで自分のクビを絞めてしまうような……。そんな感覚がありましたね」

 出岐さんは引退後に一度だけテレビのスポーツバラエティ番組『消えた天才』に出演している。25歳の若さで引退した理由を問われ、「箱根で燃え尽きた。陸上がそんなに面白く思えなかった」という主旨の回答をしていた。

 あれだけ苦しい練習を、好きと思えない選手が頑張れるものだろうか――当時はそう思っていたが、話を聞いた今ならわかる気がする。走ることそのものよりも、出岐さんは箱根で周囲の期待に応えることに喜びを見いだしていたのだろう。

<第3回に続く>

文=小堀隆司

photograph by Miki Fukano