日本将棋連盟は今年の秋に創立100周年を迎える。その記念事業として、東京・千駄ヶ谷の将棋会館は駅前に建設中の新しいビルに移転する。

 そこで、過去の将棋会館(連盟本部)の変遷やエピソードを紹介する。戦前は陸軍の青年将校が起こしたクーデター事件の余波を受け、さらには空襲によって本部が焼失する事態にもなった。戦後はプロ野球、大相撲、徳川家の馬場跡と、なぜかスポーツと歴史に縁があった。一連の経過を田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書は当時】

二・二六事件の日も通常通り対局が始まったが

 日本将棋連盟が創立されてから11年後の1935(昭和10)年8月。連盟は東京市赤坂区青山北町に敷地180坪の本部事務所を賃貸で設置し、12間の和室で公式戦の対局が可能になった。同年5月に創設された「実力名人戦」(現・毎日新聞社が主催)の多額の契約金によって、連盟財政が豊かになっていた。

 1936年2月26日未明。陸軍の青年将校が下士官や兵を率いて、首相や閣僚らの政府要人を襲撃した「二・二六事件」が勃発した。当日は早朝から不穏な空気が漂い、路上の随所に決起部隊の兵士が守備に立っていた。

 青山の連盟本部では対局が通常どおりに始まったが、対局者は市街戦が起きるという怪情報に平静さを失った。

 日露戦争に出征したことがある大崎熊雄八段は「弾丸が飛んで来ようが、将棋指しは盤に向かうのが本分じゃ。さあ続けよう」と言って動じなかった。しかし、政府要人が殺害された事態が判明すると、将棋どころではなかった。昼過ぎに対局は中断された。

 また、当日の朝に麹町の辺りを歩いていたある棋士は、殺気を帯びた決起部隊の兵士に「どこへいくか」と銃剣を突きつけられた。「この近くで将棋の対局が行われていて、観戦にいくところです」と答えると、羽織袴の和服姿を信じられて通行を許可されたという。

 連盟本部はその後、赤坂区青山表町、麹町区一番町、小石川区小日向台町と移転した。そして1945年5月の空襲によって、小石川の本部は焼失した。貴重な資料や文献を収めた土蔵も直撃弾で灰燼に帰した。

戦後まもなくは後楽園球場スタンド下の部屋を

 戦争が終わると、将棋界は復興の第一歩を踏み出した。

 戦災を免れた目黒区の金易二郎八段、渡辺東一八段の自宅を連盟仮本部とした。1946年に創設された順位戦の対局は、将棋を愛好した会社社長の屋敷、麻布の寺院、下宿屋の2階などで行った。当時は記録係も不足していて、対局で前日に上京した大山康晴七段が臨時で記録係を務めたことがあった。

 1947年4月にはある実業家の支援を受け、小石川区春日町の「後楽園球場」スタンド下の部屋を借用できた。連盟本部を復活させて対局を行い、アマ向けの道場も設けた。ただ寝具はなくて宿泊できないので、大半の対局者は深夜まで指して(持ち時間は各7時間)徹夜で局後の検討を行い、朝になって帰ったという。

 後楽園球場は戦後の一時期にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収された後、1946年からはプロ野球や大学野球が行われていた。当時のプロ野球は1リーグ制で、読売ジャイアンツ、大阪(阪神)タイガース、東急フライヤーズ、南海ホークス、中日ドラゴンズなどが試合をした。

中野駅近くにあった会館が千駄ヶ谷に移転したワケ

 1949年7月、連盟は将棋を愛好したある実業家の口利きで、中野区昭和通りの2階建ての建物を購入し、初めて持ち家の将棋会館を得た。そこは第38代横綱の照国の相撲道場で、墨田区両国に部屋を新設したので出ることになった。下見をしたある棋士は、大柄の力士たちがいて狭く感じたそうだが、実際に移ってみると広かった。連盟は自己資金では足りないので、全国の将棋ファンに寄付金を募ったところ、予想以上に集まったという。

 中野の本部は中央線・中野駅から北東方向に徒歩10分あまり。多くの棋士が中野周辺や中央線沿線に住んだ。駅の近くのある寿司屋は、棋士たちのたまり場となった。

 やがて、棋戦や棋士が増えてくると次第に手狭になってきた。都心にある新聞社との連絡や往復も不便だった。

 1957年に連盟会長に就任した加藤治郎八段は、都心に近いところに本部を移転させることに尽力した。そして、現在の将棋会館がある千駄ヶ谷の土地が見つかった。徳川家の馬場跡だったところ。実は徳川家と千駄ヶ谷は縁が深かった。江戸時代末期に将軍家に嫁いだ天璋院(NHK大河ドラマ『篤姫』のヒロイン)は、江戸幕府が崩壊すると千駄ヶ谷の徳川宗家の邸で暮らしていた。

田丸九段が奨励会時代に見聞きした“昭和の記憶”

 1961年6月、千駄ヶ谷に木造2階建ての旧将棋会館が建設された。そのときは自己資金と将棋ファンの寄付金では足りず、連盟は各新聞社から融資を受けたという。

 東京オリンピックが開催される直前の1964年夏。私こと田丸(当時14歳)は小中学生の大会に参加するために将棋会館に初めて行った。白壁が落ち着いた雰囲気をかもし、1階の道場から聞こえてくる駒音が心地よかった。玄関を入ると中庭が見えるロビーがあり、その先に特別対局室があった。

 2階は数十畳もの大広間で、公式戦の対局やアマの大会に使われた。外観は団体本部というよりも、茶道や舞踊の大家が住む風雅な邸宅という趣があった。

 田丸が奨励会時代(1965年に入会)に2階の大広間で記録係を務めていると、昼間に向かいの鳩森八幡神社の部屋から雅な音曲がよく流れてきた。謡曲の稽古をする人たちがいて、三味線や鼓の音に乗って謡が聞こえてきた。それは昼下がりの対局室で何ともいえぬBGMとなった。それから玄関脇には卓球台が置かれ、棋士、奨励会員、連盟職員らが代わる代わる楽しんだ。だから、卓球の音もよく耳にした。

 今になって振り返ると――歓声やボールの音が対局室に響いて、対局者は気が散ったと思うが、文句を言う棋士はいなかった。当時は何かにつけて鷹揚だった。

男女が密会する旅館街だったのでカップルが…

 1970年代の千駄ヶ谷は、男女が密会する旅館街として有名だった。旧将棋会館も外観はそれに近いので、間違って入ってきたカップルもいたという。なお、会館の南側にかつてあった「松岡」という旅館は、戦前に外相を務めて国際連盟脱退を決めた首席全権の松岡洋右の私邸だった。

 1976年4月、現在の5階建てビルの将棋会館が建設された。それから48年、ほぼフル稼働して今日に至っている。工事や補修を重ねてまさに満身創痍だが、ある業者には「元気なおじいちゃん」と言われたものだ。

 田丸の個人的な思い出は、2001年から2003年までの2年間あまり、『将棋世界』編集長として地下の事務所に通って業務をこなしたことだ。順位戦の対局前夜に最終電車で帰宅、編集部員と雑誌の中身で激論、雑誌を共同作業で作り上げる棋士では得られない喜びなど、いろいろなことが浮かんでくる。

 なお『噂の真相』のコラムで、「部数が落ちて部員がやる気をなくしていて、田丸編集長が会議で一人で話して記事を書いている」と書かれた。だいたい事実だが、内部の話がなぜ伝わったのだろう……。

文=田丸昇

photograph by Nanae Suzuki