日本中を騒然とさせた大谷翔平選手の元通訳・水原一平氏の賭博スキャンダル。かつて日本スポーツ界において、違法賭博が大きな騒動となった事案として2010年に表面化した「大相撲野球賭博事件」が挙げられる。なぜスポーツ界と違法賭博は結びついてしまうのか。事件の“首謀者”のひとりとして有罪判決を受けた押尾川部屋の元幕下力士・古市満朝氏(51歳)が振り返る、違法ギャンブルのリアルとは。<前後編の後編/前編から読む>

 大相撲野球賭博事件で、震源地となった阿武松部屋(当時の親方は元関脇・益荒雄)に賭博を最初に持ち込んだのは、同部屋OBで元幕下力士の梓弓(本名=山本俊作)だった。

 梓弓の父は、関西野球賭博の有名な胴元として知られていた。力士時代に築いた人間関係と信用、情報力で、野球賭博は瞬く間に角界の深部に広がっていったのである。

「違法賭博の胴元は暴力団であるという固定観念がありますが、それは違います。もちろんヤクザ直営の胴元もありますが、当時はカタギが運営して、暴力団員が客といったケースも多かった。胴元の鉄則は“客を殺さない”ことですから、たとえ借金が累積しても、すぐに追い込んだり、暴力でカネを回収するということはあり得ない。

 むしろ熱くなっている客に、冷静さを取り戻すよう諭します。違法賭博の世界では、関与している全員が摘発されるリスクを共有しているため、事件を起こしては共倒れになると分かっているのです」

水原事件のナゾ「なぜ胴元はあれほどの金額まで受けたのか」

 古市氏の場合、野球賭博1試合に賭けた最高金額は1000万円だった。もっとも、通常の野球賭博でこれだけの金額を胴元が受けることはまず、あり得ないという。

「“丁半バクチでテラ銭が1割”というシステムでは、試合に八百長でもない限り、客は勝てません。どうしても負けを取り返そうとすれば大きく張るしかないが、そういうイチかバチかの勝負は、たとえ相手が天下の横綱でも胴元は受けてくれない。

 客が負けたときは回収できずに焦げ付くリスクがあり、勝った場合には支払いができなくなる可能性があります。水原さんの場合、どうして何十億円もの損失になるまで胴元が受け付けたのか。そこが分かりません」

 大相撲野球賭博事件が表面化したきっかけは、元関脇・貴闘力の大嶽親方が珍しく500万円の勝ちをおさめたとき、その勝ち金を胴元の梓弓が精算できなかったことに始まる。

 違法賭博の「生態系」は極めて脆弱な土台の上に成り立っているが、それを支えているのは賭博者の「何としてでも賭けたい」という病的な欲求に他ならない。

ロッテに賭けた300万円が大逆転で…

 通算で少なくとも数千万円を野球賭博で溶かしたという古市氏だが、過去にひどい負けを喫し「区切りをつけよう」と決意したことが2度あったという。

「いずれも2007年のことでした。6月16日のセ・パ交流戦、阪神―ロッテ戦と、この年夏の甲子園、佐賀北(佐賀)と広陵(広島)の決勝戦です」

 当該の阪神―ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で、古市氏はロッテに300万円を張っていた。この年のロッテはめっぽう強く、僅差で優勝(日本ハム)を逃したものの、最終的にエース成瀬善久が16勝、小林宏之は13勝をマーク。

 薮田安彦、藤田宗一、小林雅英の「YFK」も健在で、この阪神戦ではロッテ側から「1半」のハンデが出るほどの人気だった。これはロッテが2点差以上をつけて勝たないと、完全勝利にはならないことを意味する。

 試合は古市氏の狙い通り、8回を終了した時点でロッテが7−2とリード。あとは9回の表、阪神の攻撃を残すのみで、マウンド上の藤田を含めて「YFK」は3枚とも投げられる状態。どこから見ても勝ち(300万円から1割引かれ270万円勝ち)確定の状況だったが、悪夢の展開が待ち受けていた。

 藤田が3連打を浴びたうえ、守護神・小林雅英がタイムリーを許し2点を返される。さらにエラーとヒットで同点とされ、最後は薮田もメッタ打ち。この回大量9点が入り、試合は11−7で阪神が歴史的逆転勝利を飾った。

「270万の勝ちが5分で300万の負けになり、ひと月は立ち直れなかった。しかし、8月になって何とか取り返したい気持ちがぶり返し、今度は高校野球の決勝戦に張ったのです」

 2カ月後の8月22日、甲子園球場で行われた佐賀北と広陵の決勝戦。公立高校として快進撃を続けていた佐賀北であったが、エースの野村祐輔(現・広島)を擁する広陵の実力上位は揺るがず、古市氏はハンデの出ていた広陵に数百万円を投じていた。

 試合は8回表が終わった時点で4−0と広陵リード。佐賀北はヒット1本に封じ込まれ、千葉マリンの惨劇で失ったカネを取り戻す大勝利は目前に迫っていた。

 ところが、ここから高校野球史に残るドラマが起きる。球審の微妙な判定で歯車の狂った野村は、押し出しの後、まさかの逆転満塁弾を浴びてしまう。試合は5−4で佐賀北が劇的な初優勝を飾った。

自分の意思で賭博をやめることができない状態に

「あのときは甲子園に乗り込み、球審の首を絞めてやろうかと本気で思いました。ただ、結局その後も野球賭博をやめることはできなかった。野球賭博は客として張るだけではなく、中継としてカネを集め、それを握って大きく勝負する方法もある。大勝ちの選択肢がいくつか用意されているため、負け金が大きくなればなるほど抜け出すことは難しくなる。

 自分の場合、事件で逮捕されることによって強制的にリセットされましたが、水原さんも自分の意思で賭博をやめることができない状態に陥っていたのは間違いないと思います」

 文豪ドストエフスキーが、ルーレット賭博に取り憑かれた青年の病理を描いた名作『賭博者』を発表したのは1866年のことだった。「勝つ」ことから、やがて「負けを取り返す」ことに目的を移行させるギャンブラーの破滅の物語は、150年以上が経過した現在も繰り返されている。

文=欠端大林

photograph by Hitoki Kakehata