3月20日に韓国・ソウルで行われたメジャーリーグ開幕戦、ドジャースvs.パドレス。始球式を行った朴賛浩が口にしたのは戦友・野茂英雄への感謝だった。

野茂英雄さんという樹木は非常に偉大でした

 詰めかけた日本メディアへのサービスコメントではない。「コリアンエクスプレス」と呼ばれた韓国の英雄は、約12分に及ぶ記者会見の間に「NOMO」という名を6度も口にして感謝の思いを表した。

「野茂英雄さんという樹木は非常に偉大でした。朴賛浩という樹木もそこに育ち、それからアジアの多くの選手が大リーガーを夢見て成長していってくれたのです」

 3月20日。高尺スカイドームで行われたドジャースとパドレスの開幕カードは、韓国で史上初めて開催されたMLB公式戦となった。歴史的な試合が実現したその立役者こそが朴賛浩。1994年にドジャースでメジャーリーグのキャリアを歩み出し、2005年〜06年シーズンにはパドレスでも活躍した右腕は、両軍のデザインが半分ずつあしらわれたユニフォームを着て、第1戦の始球式を務めた。

失意の朴賛浩の前に現れた野茂英雄

 試合開始に先立って行われた記者会見。韓国、アメリカ、そして日本メディアの前で、レジェンド右腕は自らの挑戦の歴史である30年を振り返った。漢陽大学在学中にドジャースと契約し、アジア人として初めてメジャーのマウンドに立った日のこと。デビュー戦でストライクが入らず、1死も取れぬまま2失点を喫した屈辱。マイナー降格の挫折と、通訳もなしで過ごした孤独な日々……。

 失意の朴賛浩に輝ける道を示したのが95年にドジャースに入団した野茂英雄だった。

「30年前、アジア人は私一人でした。マイナー降格した翌年に野茂英雄さんがMLBに入り、東洋の扉を開いてくれた。その扉に私も飛び込んで一緒に活躍していく中でアジア人は確固たる地位を築くことができました」

ライバル意識から親友へ

 当時まだ、日韓両国は緊張関係にあった。パイオニアとして母国の期待を背負って海を渡った右腕には当初、野茂への憧れと同時にライバル意識もあったという。しかし、96年にメジャーに定着し共に先発ローテーションを担うようになると、その関係は唯一無二の「親友」へと変わった。

 野茂の背番号「16」に対して、朴賛浩は「61」。ロッカーは隣同士で、プライベートで共に食事に行くことも多かった。この頃、ドジャースの先発ローテーションは多国籍な顔ぶれが担っていた。アメリカ人のトム・キャンディオッティ、ドミニカ共和国出身のラモン・マルティネス、メキシコ出身のイスマエル・バルデス、そして韓国の朴賛浩と日本の野茂英雄が名を連ねていた。

多様な出身者が形成した先発ローテ

 当時、野茂の通訳を務めていた奥村政之氏(現・ヤクルト編成部参事、国際グループ担当部長)は、この5本柱がチーム内で「IHOP(アイホップ)」と呼ばれていたのを覚えている。「インターナショナル ハウス オブ ピッチャーズ(International house of pitchers)」の頭文字をとったもので、パンケーキが有名なアメリカのレストランチェーン店の名前とかけた愛称だった。

「それぞれの出身国の文化を背負ったピッチャーがローテーションを担っていた。“うちはアイホップ、でしょ”って誇りに思っていたし、投手同士も仲が良かったですよ」と奥村氏は振り返る。

野茂さんは僕に再起する力をくれた

 お互い切磋琢磨してドジャースを支えた二人は、1998年6月に野茂がニューヨーク・メッツにトレード移籍したことでチームメートではなくなったが、その後も友情関係は続いた。朴賛浩は特に、自身が苦しい時期を過ごしていた2007年の出来事を忘れられないと語った。

「この年、私はマイナーリーグでシーズンを送っていて、自分のキャリアはもはやここまでかと思っていました。でもその時、野茂さんの姿を見て、もう一度勇気を奮い起こしてやろう、という気持ちになりました。野茂さんは僕に再起する力をくれたのです」

 朴賛浩はこの年、メッツのマイナーで過ごした末に解雇され、6月に契約を結んだヒューストン・アストロズでも一度もメジャーに上がれないままシーズンを終えた。一方で、前年の06年に右肘を手術していた野茂も雌伏の時を過ごしていた。無所属でリハビリを続けながら、ベネズエラのウインターリーグに参加して再起を目指していた。

 二人は違う場所に身を置きながらも同じように泥を啜り、メジャーにはい上がることを決して諦めていなかった。朴賛浩は当時の思いを、「Number」1009号のインタビューでこう明かしている。

野茂さんの記録に並び、超えたい

「私には大きな目標がありました。野茂さんの(MLB通算勝利数の)記録に並び、超えること。それを成し遂げるまでは、中継ぎであっても敗戦処理であっても、メジャーにしがみついてやろうと必死でした」

 朴賛浩は翌08年、復帰した古巣のドジャースで敗戦処理から這い上がり、中継の一角として復活。09年にはフィリーズで先発のチャンスを掴み取り2010年、自身7球団目の移籍先となったピッツバーグ・パイレーツで野茂のMLB通算勝利数を超える124勝目に到達した。その勝利数は、現在もアジア人として最多。そこに最も近づいているダルビッシュ有(4月29日現在103勝)について、朴賛浩は笑顔でコメントしている。

通算124勝という記録もいつかは破られるべき

「通算124勝という記録もいつかは破られるべきです。ダルビッシュ選手には必ずや実現してほしい」

 野茂英雄と朴賛浩。二人が太平洋を渡り切り拓いた道は今や、メジャーリーグへの黄金の架け橋となり、多くのアジア人選手が夢を抱いて歩んできた。特にドジャースは日本、韓国、台湾など多くのアジア人選手を受け入れ、そのリストには今シーズンから大谷翔平と山本由伸の名前も加わった。両チーム合わせて5人のアジア人選手がロースターに名を連ねた韓国での開幕シリーズはまさに、大きな樹木に夢が結実したシーンだった。

 2025年シーズンのメジャーリーグ開幕シリーズは来年3月に日本で行われることが内定し、ドジャースの来日に期待が高まっている。次に開幕戦のマウンドで始球式をつとめるのは“トルネード”のあの人となるのか――。そんな夢もまた、膨らんでいる。

文=佐藤春佳

photograph by JIJI PRESS