4月26日、Vリーグ・岡山シーガルズの宮下遥が今シーズン限りの勇退、そして現役引退を発表した。

 セッターとして“大型”と言われる178センチの長身と強気なトスワーク、抜群のレシーブ力、そしてブレイクを重ねるサーブを武器に日本代表として活躍した。リオ五輪に出場した経験豊富な29歳――プレーヤーとしては少し早い決断のようにも感じるが、多くの期待を背負い続けて15年もの月日が経っている。引退の発表を受け、素直に「よくやったね」という思いが込み上げた。

中学生でVリーグデビュー

 大阪国際大和田中学でアタッカーからセッターに転向。すぐに才能を開花させると、2009年5月の「黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会」に岡山シーガルズの一員として抜擢された。当時は史上最年少となる14歳8カ月でデビューし、同年11月には15歳2カ月でVリーグの最年少出場記録を更新した。

 初めて宮下を取材したのも、ちょうどこの頃だった。

 中学生に向けてトップ選手が技術を語る企画の、第1回として取り上げることになったのが当時、同じ中学生の宮下だった。すでに多くのメディアから視線が注がれる中、宮下は「何を聞かれるのか」と明らかに警戒した表情で現れた。丁寧に話そうとしながらも、いい意味で遠慮がなく、どこかぶっきらぼう。トスの技術や気を付けているポイントをたずねても「まだわからない」とストレートな答えを返した。

 表情がほころんだのは、バレーボールの質問を終えて好きな食べ物を尋ねた時だった。

「お母さんのコロッケが好きなんです。うちのお母さん、手が大きいからコロッケもすごく大きくて。ハンバーグとかも大きいんですけど、大きくてジャガイモがゴロゴロ入ったコロッケが一番好きです」

 コートでは淡々とした振る舞いを見せるが、ひとたびその場を離れると、実は感情豊かで涙もろい一面もある。さまざまなシーンで見せるギャップが、いつも面白かった。振り返れば、Vリーグデビュー戦ではプレー中にチームメイトと交錯して前歯を2本も折るアクシデントがあった。何年かしてから話題に上げると、今はきれいに揃う前歯を「いーっ」と見せながら笑った。

「試合中は必死でした。でも冷静に考えたら、歯が折れちゃったわけじゃないですか。私、このまま歯かけとして生きていかなきゃいけないのかな。どうしよう、って内心はめちゃくちゃ焦ったし、泣きそうでした(笑)」

恩師が期待した長身セッター“未来の姿”

 15歳から積み重ねた経験と周囲を魅了する人間性。あふれるばかりの可能性を秘めた宮下をセッターへと転向させた恩師でもある岡山の河本昭義監督は、事あるごとに期待を寄せていた。

「遥が日本代表のセッターになったら、日本はオリンピックで金メダルを獲る。技術に長けたセッターは他にもたくさんいるけれど、土壇場に追い込まれた時の強さ、味方も驚かせるような大胆さを持っているのは彼女しかいません。いつかその時が来たら、本当に楽しみですよ」

 師が描いた“いつか”は間もなく訪れた。

 2012年ロンドン五輪で日本代表のセッターとして銅メダル獲得に導いた竹下佳江が現役引退。直後に抜擢されたのが、2010年から登録メンバーに名を連ねていた宮下だった。

 2013年8月のワールドグランプリで日本代表デビューを果たし、翌年の世界選手権、2015年のワールドカップに出場。各国の敵将は「素晴らしいセッターが出てきた」と、宮下の才能を褒めたたえた。

 しかし、本人が口にするのは反省ばかり。ライト側のトスを得意とする宮下が課題としたのが、レフト側からの攻撃だった。当時の代表は主将でエースの木村沙織が中心で、いかに木村を活かすかがセッターに求められる大きな要素でもあった。

 木村に限らず、エース勝負の気質が強い女子バレーの世界では、いかに打ちやすくレフトにトスを上げられるかがセッターに求められる要素でもある。所属する岡山のスタイルとは異なるバレーな上に、トスを「高く・丁寧に」と意識をすればするほどボールが伸びず、逆に丁寧に上げようとしすぎると手で持ちすぎてタイミングがズレてしまう。これなら大丈夫、という自信が得られないまま16年のリオデジャネイロ五輪出場をかけた最終予選に出場した。

 そんな大舞台で宮下を救ったのは、エースの木村だった。

 大会に向けた合宿で、早朝から一人で自主練習をしていた宮下に付き合い、ひたすらスパイクを打ち続けた。そして出場権獲得がかかり、結果的に五輪出場を決めたイタリア戦では「全部自分に持ってきて」と宮下にトスを要求し、実際にこれぞエースという獅子奮迅の活躍を見せた。試合後、ミックスゾーンの隅で「沙織さんを信じて上げ続けた」と感謝を述べる宮下の目からは涙がこぼれていた。

若きエース候補・古賀紗理那の落選

 迎えたリオ五輪はロンドン大会に続いてのメダル獲得は果たせなかった。

 ただ、「メダルを逃した」こと以上に宮下の心に今も突っかかっていたのは、五輪予選で木村の対角に入った古賀紗理那を最後まで活かしきることができなかったことだった。

 19歳の若きエースと期待を集めた古賀は高い打点からクロス、ストレートへ打ち分ける能力がある。だがその高さを活かすコンビも一朝一夕で完成するものではない。当時の古賀も日本代表での経験は浅く、「このトスは打てない」とセッターに要求する強さがまだなかった。

「大丈夫?」
「大丈夫です」

 互いに気遣うだけで、会心の一打には遠い。必然的にトスの本数は宮下が得意とし、信頼を寄せる長岡望悠がいるライト側へ偏った。その結果、古賀はリオ五輪予選の終盤に出場機会を減らし、本大会の直前にメンバーから落選した。

 団体競技である以上、メンバー選考にはいくつもの理由がある。選出も落選もさまざまな観点から熟考の末に導き出されたもので、決して宮下が責任を感じる必要はない。だが、あれから長い時間が経過しても後悔が消えない。宮下は昨年、こんなことを言っていた。

「紗理那がリオ五輪に出られなかったのは、私のトスがダメだったから。あれだけ力のある選手なのに、私がトスをちゃんと上げられなかったせいで、紗理那を活かしきれなかった。だからメンバーに選ばれなかったんだ、私がつぶしちゃった、って。それだけは今も、ずっと、責任を感じているんです」

 だからこそ、古賀が逞しき日本のエース、そして主将へと成長を遂げたことを誰よりも喜び、応援している。

「紗理那、めちゃくちゃすごいじゃないですか。頑張ってほしいし、思う存分、紗理那がやりたいバレーをしてほしいんです」

最後は笑顔でラストゲームを

 2009年から2024年、実に15年にわたって、岡山シーガルズのセッターとしてコートに立ち続けてきた。どこでも「チーム最年少」と先輩選手と一緒に笑っていた頃から、気づけば周囲には年下が増え、“遥さん”と慕われる選手になっていた。

 それでも、コートに立てば、いわゆるセオリーに収まらない、時にむちゃくちゃにも見える大胆なトスワークで相手を翻弄し、リベロ顔負けのレシーブでも会場を沸かせた。何より宮下がコートに立つだけで拍手が送られた。多くの人を魅了できる稀有なバレーボール選手だった。

 現役最後の大会となる黒鷲旗はグループリーグ戦を経てトーナメントが行われるため、ラストゲームの日付はまだ決まっていない。

 ただ、願うことはひとつだけ。

 責任など背負うことなく、バレーボールを楽しみ抜いて終わってほしい。涙を流すことなく、やりきったと胸を張ってほしい。

 恩師も、仲間たちも、みんながそう願っている。どうか笑顔で、晴れ晴れと。

文=田中夕子

photograph by AFLO SPORT