一流アスリートの親はどう“天才”を育てたのか――NumberWeb特集『アスリート親子論』では、様々な競技で活躍するアスリートの原点に迫った記事を配信中。本稿では、バドミントン混合ダブルス日本代表・東野有紗(27歳)の母・洋美さんのインタビューをお届けします。(全2回の2回目/前編から続く)

 その日は朝から先輩たちの卒業式だった。

 2011年3月11日、東北地方を中心に未曾有の被害を引き起こした東日本大震災が発生した。

 福島第一原発から約10キロの場所にあった校舎で、当時中2だった東野有紗は先輩を送り出し、練習前に体育館で準備をしているところで強い揺れに見舞われた。

「職場の社長さんに『娘さんが心配だろうから帰っていいよ』と言われ、急いで学校に向かいました。道路は穴が開いていたりしてぐちゃぐちゃで、たどり着くまですごく時間がかかってしまって。多くの方々が集まっている中、大きな声で『有紗!』と叫んで必死に探しました。ようやく会えたときは、お互いに抱きしめながら大泣きでしたね」

 余震がひどく、住んでいたアパートには戻れず一日中、車の中で過ごした。

 さらに翌12日に原発事故が起きたため、母・洋美さんは娘を連れて故郷の北海道へ戻った。

「最初は川内村に避難したんですが原発で事故があって、ここも危ないと思って北海道に戻りました。地元に戻ってからはラケットショップのオーナーさんが有紗のためにバドミントン用品を全部揃えてくださったり、周りの方々が有紗の練習を快く受け入れてくださって。本当に感謝しかないですね」

「福島への恐怖があって悩んでいた」

 再び福島に戻ったのは地震発生から約2カ月後の5月のことだった。内陸にある猪苗代中に設置されたサテライト校で練習できることになったのだ。

 洋美さんは福島に戻るとすぐに心に決めていたが、「有紗は福島への恐怖があって悩んでいましたね。だから猪苗代が安全だということを伝えましたし、バドミントンで強くなるためには行くべきだよって何度も説明したんですが……」と、なかなか決められずにいたという。

 そんな気持ちを変えたのは、一時期、練習に参加していた北翔大学(北海道)の女子キャプテンの言葉だった。東野に深く突き刺さった。

「何度も相談していたみたいなんですが、そのキャプテンに『こんなに強いのに、富岡でなんでバドミントンを続けないの』と言われたらしくて。その言葉を聞いて、それもそうだなと思ったんだって。『お母さんも戻ろうと言ってくれているし、だから決めた、私、猪苗代に行くよ』と」

 全国から集まった仲間たちのもとへ戻った東野は、以前にも増して周りのサポートに対する感謝の気持ちを言葉にするようになった。

「バドミントンは一人ではできない。見えないところで、誰かが関わってくださっている。だからこそ私はバドミントンが出来ているんだって。震災も経験した福島での6年間の生活を通して、有紗に一本芯が通ったと感じました。ここ一番で力を発揮できるような精神力、人への思いやりの心が強くなった。有紗のターニングポイントになったと思います」

娘が弱音を吐いた時に母がとった行動とは?

 思春期真っ只中で、もちろん東野も弱音を吐くことが何度もあった。

「練習がきつい、叱られた、試合に負けた、うまくプレーできない……とか。中学生、高校生の学生さんが普段の生活や部活で感じるような悩みを、有紗も言っていました」

 そんな時、洋美さんが心がけていたのは、傍で彼女の言葉にしっかり耳を傾けることだ。

「有紗が話し始めたら何をしていても作業の手を止めて、真剣に話を聞く。話を聞いて欲しいから、同意をして欲しいから話しているところもあると思うので。だから気が済むまで話をしたら、『聞いてくれてありがとう』という言葉でいつも終わるんですよ」

 娘と真剣に向き合うなかで、母は自身がやるべきと感じたことや気付いたことは、いつも最善の方法を探りながら実行してきた。

「中学3年生の時かな。富岡にイマム(・トハリ)さんというインドネシア人のコーチがいらしたんですが、有紗は中学1、2年とあまり結果を残せず、私は進路を迷っていたんです。それをイマムさんに相談したら、『有紗は世界で活躍できるから、卒業後も上を目指すべきだ』と助言をいただいて。そこでスイッチを入れ直して。実力を伸ばせる、発揮できる実業団に入れたいと思い、色々調べたり資料なんかも作ったりしました。やらないで後悔するのが嫌だから。スイッチが入って、“やる”と決めたら、猪突猛進ですね(笑)」

 そんな母のもとで、東野はメキメキと上達していく。そして、母の支えに加え、東野の背中を大きく押したのは、東京五輪でペアを組んだ渡辺勇大の存在だった。

 東野と同様に富岡一中に越境留学していた渡辺と初めてペアを組んだのは、震災後の2012年。インドネシアで開催されたジュニアの国際大会だった。ペア相手がいなかった、いわば余り者同士の“急造ペア”だったが、2人はこの大会でなんと3位入賞を果たす。

 ペアを組んだ瞬間から相性は抜群。スピード感もコンビネーションも、何も話さなくてもうまくいった。最初は「ミックスダブルス」という種目があることさえ知らなかった東野は、渡辺とペアを組んでから同種目の面白さを知り、この先も渡辺と組みたいと心底楽しさを感じた。

 その後はともに富岡高に進学。高校生になってもペアは継続した。当時、東野は洋美さんにもこんなふうに話していたという。

「勇大とペアを組んでプレーしてみて、すごく“合う”んだっていう話をよくしていたんですよ。有紗が高校3年時に世界ジュニア選手権で3位となったときも、『勇大くんとならオリンピックに行ける! 世界一になれる』って手応えを感じていたようで。それなら(渡辺を)誘うしかないじゃないって言っていたんですよ。勇大は有紗が組みたくて組めることができたパートナー。運命の人と10年以上ペアを組んで、今も世界で戦っている姿を見ると、本当に夢を叶えていてすごいなって思うんですよ」

「勇大はお兄さんみたい」

 中学時代から知る渡辺の存在は、洋美さんにとっても心強かった。

「勇大は本当にやさしい子なんですよ。有紗のお兄さんみたいなところもあって、いろんな場面で(東野も)頼りにしているとこともあると思います。きっと勇大くんがいなかったら有紗もここまで来られていなかった」

 そんな2人がダブルス代表として東京オリンピックに出場したことは、ここまで貫いてきた娘への思いが報われた瞬間でもあった。

 コロナ禍であいにく現地に行くことはできなかったものの、テレビに張り付いての応援。予選から手に汗握る試合展開に生きた心地がしなかった。一番近くで支え、悩みや苦労を共にしてきただけに、銅メダルを獲得した瞬間はテレビの前で「嗚咽していました」。

「試合当日の13時ぐらいにLINEのビデオ通話で有紗から報告があったんですよ。有紗は『やったよー』って満面笑顔でしたけど、その間も私はずっと泣いていて(笑)。最後はお互いに『ありがとう』という言葉でしたね」

銅メダルを獲得した東京五輪まで続いた母娘の二人三脚。

そんな生活も東京五輪後は解消し、洋美さんは東野の父や兄、家族がいる北海道へと戻った。娘の独立を見届け、洋美さんの子育ても今はようやくひと段落。

「小学6年のときに富岡に行くことを促したのも私でしたし、震災後、福島に戻ることを決めたのも私。ずっと有紗に後悔をさせるわけにはいかないと思い、何があっても絶対に支えるんだ!と心に強く誓っていました。だからこそ、有紗が社会人になったときは『6年間やりとげたー!』って、私の役目は終わったんだって思いました。その後も一緒に暮らしていましたけど、東京でメダルも獲得しましたし、コロナ禍で有紗も家にいることが多かったので、有紗も家事もなんでもそつなくこなせるようになって。もう私がいなくても、一人でも全然大丈夫かなって。なんの心配もなく戻りました」

 東野が一人暮らしをし始めたある日、「大好きなバドミントンを続けられているのは、お母さんや家族みんなのおかげ。ありがとう」と言葉をかけられたという。

 今もその言葉を思い出すと、「本当に育ててきてよかった、支えてきてよかったって」と、自分がやってきたことが間違っていなかったんだと胸が熱くなる。

最高の相棒と再び大舞台へ

 わたがしペアは2大会連続でのオリンピック出場を決めた。今夏のパリで目指すのは史上初のミックスダブルスでの金メダル獲得だ。洋美さんは、現地で東野と渡辺に大きな声援を送る。

「その日まで怪我なく元気にトレーニングに励めるように。そして無事にミックスダブルスの決勝が行われる8月2日の夜を迎えて欲しいですね」

母娘の努力が実った東京五輪から3年――。一人立ちし、たくましく成長した娘は“最高の相棒”とともに、再び大舞台に挑む。

文=石井宏美

photograph by Itaru Chiba