「今世紀最大の激突」と謳われ、日本武道館で実現したロブ・カーマンvsドン・中矢・ニールセン(写真/東京スポーツ新聞社)
「今世紀最大の激突」と謳われ、日本武道館で実現したロブ・カーマンvsドン・中矢・ニールセン(写真/東京スポーツ新聞社)

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第25回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

■〝帝王〟カーマンを生んだオランダキックの歴史

1978年、オランダで初のキックボクシングジムとして、オランダ目白ジムが設立された。代表は、黒崎健時(けんじ)が代表を務めていた日本の目白ジムでキックのイロハを学んだヤン・プラス。ロブ・カーマンだけではなく、のちにジムの代表となるアンドレ・マナート、レオ・デ・スノーら数々の名チャンピオンを輩出した名伯楽だ。

ここで、この国の格闘技の歴史を簡単に説明しよう。戦後、オランダは1961年の世界柔道選手権で初の外国人王者となり、64年東京五輪で金メダルを獲得したアントン・ヘーシンクや、72年ミュンヘン五輪の金メダリスト、ウイリエム・ルスカを輩出するなどヨーロッパの柔道強豪国として知られていた。

柔道はオランダに1910年頃に入ったとされる。第二次世界大戦前は私立探偵ディック・ボシュを主人公とした柔道・柔術漫画が人気となり、その延長線で子供たちは漫画の中で知った東洋の武道や武術を真似事で始めたという。梶原一騎原作の劇画『あしたのジョー』や『キックの鬼』より先に、しかも海外で、漫画をきっかけに流行った格闘技があったという事実は興味深い。

柔道とは対照的に、オランダでボクシングはさほど盛んではない。プロレスに至ってはほとんどやっていない。隣国ドイツではプロレスは「CATCH」としてサーカス形式の興行で定着化していたのに、この違いはいったいなんであろうか。

打撃系格闘技として、オランダで最初に発展を遂げたのは極真空手だった。そのルーツはキック同様、黒崎健時で、66年から11ヵ月間現地で指導をしたという。日本同様、フルコンタクト空手という下地があったからこそ、キックが発展することになったのだろう。

他の格闘技興行が盛んでないことも手伝ってか、オランダでキックは独自の発展を遂げることになる。キック興行のスタートはオランダ目白ジムの設立より早く、1976年5月31日のことだった。選手としてトランクス姿でリングに上がったヤン・プラスはKO勝ちを収めている。

80年代になると、オランダキック界の活況を当時日本では唯一の格闘技専門誌として発行されていた『マーシャルアーツ』によって、日本の格闘技ファンは知ることになる。83年に発行された同誌の創刊号では、ロブ・カーマンの雄姿が初めて写真で公開されている。

87年7月に旗揚げした新生・全日本キックボクシング連盟は他団体との差別化を図るため当初からヨーロッパの強豪を招聘。その真打ちとして、87年11月、ロブ・カーマンは待望の初来日を果たす。

それから怒濤の9連勝をマークした。90年9月28日に大道塾で一時代を築き上げた〝覇王〟西良典と拳を交わすまで、外国人選手とばかり対戦していたのは、カーマンの実力に見合う実力者が日本国内にいなかったからだろう。

カーマンの長所といえば、何よりも佇まいに華があることだった。この頃、低迷期を迎えていた日本キック界において、強さはもちろん、格闘技ファンを魅了するオーラは必要不可欠だった。カーマンはその輝きをリングに上がるたびに振りまいていた。

勇壮な入場シーンから別格のオーラを漂わせていた(写真/長尾 迪)
勇壮な入場シーンから別格のオーラを漂わせていた(写真/長尾 迪)

■前田日明との異種格闘技戦で名を上げたニールセン

こんなエピソードもある。日本での13戦目となった『格闘技シンポジウム』(92年12月11日・東京武道館)で、当初カーマンの対戦相手は「X」と名前を伏せられていた。

主催者が国内で血眼になって対戦相手を探していたからだ。努力の甲斐あって、ようやく日本人武道家から「対戦してもいい」という者が現れたが、動きなどをテストするととてもカーマンに太刀打ちできるレベルではなかった。そこでカーマンとの再戦を狙っていた、当時大阪の正道会館の寮に住んでいたアダム・ワット(オーストラリア)に白羽の矢を立てたという。

アダム・ワットを返り討ちにした2日後、カーマンは東京でセミナーを行ない、多くの選手が参加した。参加者のお目当てはカーマンの対角線のコンビネーションだった。

右フックを打ったら、左ロー。左ローを打ったら右ストレートという感じで常に対角線を描く連続攻撃で相手を攪乱していく戦法が得意だった。日本ではカーマンが使うことでおなじみとなったが、オランダでは誰もが使うポピュラーな攻撃だった。

以前、ボスジムで、アーネスト・ホーストのコーチで日本ではシュートボクシングの吉鷹弘との激闘で知られるイワン・ヒポリットの練習を見る機会があったが、対角線のコンビネーションによる攻撃をあまりにもスピーディーに連続してやるので、取材ノートへのメモがとても追いつかなかったという苦い思い出がある。第三者の目で追えなければ、視界がもっと狭い対戦相手の目で追えるはずもない。非常に理に叶った攻撃だと納得したものだ。

多彩なコンビネーションがカーマンの強みだった(写真/長尾 迪)
多彩なコンビネーションがカーマンの強みだった(写真/長尾 迪)

日本で最も印象に残るカーマンのファイトといえば、89年9月5日、全日本キックが満を辞して日本武道館で開催した初のビッグマッチ『REAL BOUT』で実現したvsドン・中矢・ニールセン(米国)だろう。

86年10月9日、日系人のニールセンは新日本プロレスにおける前田日明との異種格闘技戦で日本デビュー。その後も新日本で山田恵一、藤原喜明と闘い、プロレスファンから絶大な支持を得ていた。正直、日本での知名度はカーマンよりはるかに上だった。

しかし、カーマンvsニールセンの夢の対決が実現に至るまではトラブル続きだった。89年5月14日、全日本キックは両者を揃い踏みさせた前哨戦を企画したが、カーマンが右足首の負傷を理由に出場をキャンセル。一方のニールセンはケビン・ローズイヤー(米国)との一戦に挑んだが、いいところなく6ラウンドKOで敗れた。ローズイヤーはガラスのコップをバリバリ食べる奇行で知られ、のちにUFCにも出場したスーパーヘビー級のキックボクサーだった。

さらに、当初カーマンvsニールセンは6月23日に日本武道館で予定されていたが、今度はニールセンが左足首重傷のケガを負ったため、大会は3ヵ月後に延期されることになってしまった。

6月のときは試合直前になってニールセンがカーマンとの対決を嫌がったという噂もあるが、9月の大会は予定通り行なわれた。ニールセンのほうが体が大きいというハンディがあったとはいえ、カーマンはローでニールセンの下半身を徐々に破壊し、2ラウンド左ローで先制のダウンを奪う。最後は3ラウンドに背中を向けたニールセンに右フックをクリーンヒットさせ引導を渡した。

ローズイヤー戦でほころびは見えていたが、異種格闘技戦で積み重ねたニールセンの最強神話が崩れ落ちた瞬間だった。その1ヵ月半後、カーマンはイギリスのプロレスラー、サムソン・ネグロを相手に初めて異種格闘技戦に挑むことになる。

(つづく)

文/布施鋼治