【平成球界裏面史 近鉄編48】「最後の近鉄猛牛戦士」と呼ばれたNPB選手はヤクルト・坂口智隆外野手だった。ただ、近鉄最後の現役選手となれば別の選手が存在する。それは四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズで兼任コーチとしてプレーしていた近藤一樹投手(近鉄、オリックス、ヤクルト)だ。

 坂口は平成14年(2002年)の近鉄ドラフト1位で近藤は平成13年(01年)のドラフト7位。1学年違いの同世代で、チームメートとしても長年の縁でつながっていた。

 その近藤がプロ初先発、初勝利を挙げたのは平成16年(04年)9月20日のオリックス戦だった。当時は球界再編問題の真っただ中。10球団1リーグへ制度移行をもくろむNPB側と、12球団制維持を訴える選手会側で激しい攻防が繰り広げられていた。実はその球界再編問題から発生したストライキのため、近藤のプロ初先発は吹き飛んでしまう可能性もあった。

 もともとの近藤の登板予定日は18、19日の日本ハム戦(札幌ドーム)だった。だが、労使交渉が決裂し同日程で開催予定だった全試合が中止。それまでリリーフで10試合連続無失点と結果を残し、ようやくつかんだチャンスだったが試合がなければどうすることもできなかった。

 だが、近藤にはまだツキがあった。ストライキ明けの20日、オリックス戦(大阪ドーム)で再びチャンスが到来した。これは先発予定だった岩隈久志が体調不良のため、急きょ巡ってきた登板機会だった。近鉄は若手右腕を強力援護で14―2と快勝。5回2失点とゲームをつくった近藤はプロ初勝利を挙げた。大阪ドームのお立ち台で当時の背番号65はガッツポーズを決めてみせた。それなのに…。

 当時の近鉄担当記者の姿は多くなかった。大半の労力を球界再編問題に取られ、グラウンドでの野球に関しては二の次という空気があったことは事実だ。

 当時は近藤が3年目、坂口は2年目。藤井寺球場に隣接する球友寮では毎日、顔を合わせる間柄だった。平成15年(03年)の近鉄最終戦、10月7日のオリックス戦(ヤフーBBスタジアム)にはルーキー・坂口と2年目の近藤がそろってプロ初出場を記録している。坂口は「1番・中堅」でスタメン。近藤は4回から2番手で登板し3回を無失点に抑えた。

 近鉄の将来を担っていく投打の若手2人が同じ日にデビュー。猛牛軍団を支えていく予定だった。だが、期せずして05年からは近鉄とオリックスによる合併球団・オリックスバファローズでチームメートとなった。そしてその後、ヤクルトでもチームメートとして共にプレーした。

 坂口の引退試合が行われたのは令和4年(2022年)10月3日。ヤクルト球団から坂口への花束贈呈役に選ばれたのは近藤だった。ヤクルトで復活した坂口同様、近藤も平成20年(18年)にヤクルトの球団最多登板記録となる74試合に登板し、最優秀中継ぎ賞に輝いた。

 同年7月には近鉄消滅当時の球団代表・足高圭亮さんが他界した。同氏は生前に「まだ坂口と近藤が現役で頑張ってくれてるからな。当時の担当記者の皆さんは現場に出ることあったら、ええ記事書いたってな」と何度も口にしていた。

 足高氏の死去、坂口のNPB引退、近藤の現役引退は22年に重なった。一つの時代の終わりを感じずにはいられなかった。