【達川光男 人生珍プレー好プレー(56)】トレードで日本ハムへと移籍した江夏豊さんの後釜として、1981年からリリーフエースを任された大野豊は相当にしんどかったと思います。結果が求められることはもちろん、なにかと江夏さんと比較されますからね。「大野に抑えが務まるのか」と。

 そんな雑音がある中でも大野は2年連続で57試合に登板して81年は8勝4敗11セーブ、82年も10勝7敗11セーブでいずれも防御率は2点台と好成績を残しました。セーブ数が少ないのは現在のように抑えでも9回限定ではなく、早ければ試合中盤の6回途中ぐらいから同点やビハインドの展開でもマウンドに上がっていたからです。

 黙々と仕事をこなし、トレードマークはさわやかな笑顔。そんな大野がすごいけんまくで怒ったのを一度だけ見たことがあります。時期は思い出せませんが、舞台は甲子園球場でした。前のカードでセーブに失敗していた大野は心機一転、おろしたてのスパイクでブルペン待機。しかし、セーブシチュエーションで指名されたのは別の投手で、結果はカープのサヨナラ負け。プライドをズタズタにされた思いだったのでしょう。実際にブルペンでボールを受けていた私も、その日の大野は調子がいいと感じていましたから。

 当時はラッキーゾーン内にあったブルペンからバスへと向かう途中で、大野は「こんなもん、いるか!」と怒鳴ってスパイクを投げ捨てました。人前であんな姿を見せたのは、後にも先にも一度きりです。私は大野が捨てた新品のスパイクを拾い、宿舎に帰ってきれいに磨いてから部屋を訪ねました。「おい、スパイクが泣いとるぞ。我慢、我慢」。大野が「我慢」を座右の銘にしていたことを知っていたので、あえて「我慢」という言葉を使いました。そのころからですかね。大野との距離がグッと縮まったのは。

 ちょうど同じぐらいの時期だったでしょうか。大野が「荷が重い」と本音を漏らしたことがありましてね。記憶違いでなければ、コーチの大下剛史さんを交えて私と3人で話をしていたときのことです。大下さんからは「ウイニングショットから入ってウイニングショットで抑えようとするからダメなんじゃ。もっとインコースを使え」といったアドバイスをいただき、それから2人で配球についてよく話し合いました。のちに「あうんの呼吸」と言われるまでになった2人にも、そんなサイドストーリーがあったのです。

 現役最後のリーグ制覇となった91年も最後を締めくくったのは私と大野でした。10月13日の阪神とのダブルヘッダー第2試合。1―0の8回途中から登板した大野は先頭の代打オマリーから空振り三振を奪い、和田豊を遊ゴロ併殺打に仕留めて9回も真弓明信さん、岡田彰布、古屋英夫を3者連続で空振り三振という完璧な投球でした。病魔と闘っていた津田恒実に敬意を表し「最後はストレート」と決めていたのに、古屋に粘られてスライダーで空振りを奪いにいったこと以外はね。

 誇らしげに両手を突き上げながらマウンドから降りてきた大野に、私は右手にウイニングボールを持ったまま抱きつきました。翌92年限りで現役引退した私と最後にバッテリーを組んでくれたのも大野だったのです。