16世紀初め、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを支配すると、エジプトは、オスマン帝国全体を支える穀物供給地として重要な役割を持つようになりました。さらに、スエズ地峡から紅海・アラビア海へ抜けるルートが注目されるようになり、エジプトの重要性は増していきました。そのようなタイミングで、イギリスのインドへの航路遮断を狙った軍人ナポレオンがエジプト遠征を仕掛けます。しかし、オスマン皇帝によって派遣されたアルバニア人傭兵隊長のムハンマド=アリーがこれを撃退。以降、彼はエジプト総督となり、19世紀半ばには事実上独立を成功させました。

ムハンマド=アリーは、トルコの軍人です。彼の名前を冠したモスクは、アラブ式ではなくトルコ式の、エジプトでは珍しいモスク。

エジプトでは珍しい様式の、ムハンマド=アリー・モスク

植民地化と脱植民地の時代

1860年代の綿花価格高騰により、エジプトに経済的な大繁栄がもたらされました。しかし70年代の世界的不況により財政難に陥り、イギリスの保護国となります。脱植民地への歩みと反植民地主義への影響を振り返りましょう。

シナイ半島の西端にスエズ運河が開通すると、ますます世界経済におけるエジプトの重要性が増していきました。しかし、1870年代の世界的な不況も相まって財政難に陥ると、エジプト政府は保有するスエズ運河会社の株をイギリスに売却してしまいます、これを機にイギリスによるエジプト進出が始まり、1881年に起きたウラービー運動(反専制・反英)の鎮圧後、イギリスの保護国となりました。

第一次世界大戦後の1922年に独立に成功しましたが、スエズ運河とスーダンはイギリスとの共同管理となるなど、イギリスの影響が強く残っていました。そうした中、第二次世界大戦後の1952年に自由将校団(ナギブ・ナセルら青年将校)によるエジプト革命が起き、約5000年続いた王政は終焉、“エジプト共和国”が成立しました。

まもなく大統領となったナセルはアラブ民族主義と社会主義を掲げてソ連に傾倒していきました。こうした中、1956年にアスワン・ハイダム建築融資を米英に拒否されたことで、スエズ運河を国有化し通行税を建築費に充てようとします。こうして始まったのがスエズ戦争(第二次中東戦争)です。結果的にはエジプトを攻めた英仏・イスラエル軍が国連による即時撤退要請を受け入れたことでナセルの名声は高まり、1950年代後半から60年代にかけて第3世界で台頭する反植民地主義に強い影響を与えることとなりました。

「ピラミッド!」「スフィンクス!」だけにとどまらないエジプト観光地の魅力がおわかりいただけたでしょうか? ぜひ一度、その目で歴史をご覧になってみてください。

※記事内の写真は、すべて佐藤幸夫エジプトツアー2023参加者により撮影されたものです。

著者:佐藤 幸夫