Kenjiさんは、昭和40年代に兵庫県神戸市に生まれました。2歳くらいのときに、芦屋市に引っ越してからは、幼稚園から高校まで芦屋市で暮らしていました。

「父親は中卒で、大手製鉄会社の工場勤務。母親は旧制高等女学校の出身で、パートの主婦をしていました。子どもの多い時代にうちは一人っ子だったので、外に出て遊ぶといじめられました。だから、小さいころは家に引きこもって本を読んでいましたね。幸い、本はたくさん買ってもらえる家庭だったので、勉強は好きではないですが、読書は好きになりました」

「読書量と成績はある程度比例する」とも言われるように、公立小学校時代のKenjiさんの成績もかなりよかったそうで、公立中学校に進学してからも、上の下〜上の中の成績をキープしていました。中学時代には高校の受験勉強にも早めに取り組み、月々届けられる学研の『マイコーチ』をやっていたそうです。

「高校受験に関しては、そこまでの不安はなかったです。当時、兵庫の高校受験は『15の春は泣かせない』(高校全入運動とともに広がった言葉)があって、公立高校の受験は内申書で8〜9割決まっていたので。内申点もよかった私は、学費が安くて家から近い県立芦屋高等学校を受験し、合格しました」

現役で大学に入り、ふつうに大学生活を送る

芦屋高等学校に入学したKenjiさんは、すぐに西宮にあったYMCA予備校に通い始めます。塾と高校の両立が難しくなって、高校2年生でやめたものの、その後は進研ゼミで赤ペンで先生に解答を添削してもらいながら、受験対策をしていました。

「周囲が大学に進む高校だったので、大学に行こうと思って受験勉強はしました。ただ、この時点では浪人してでも、大学に行こうとまでは思っていませんでした」

高校入学後のKenjiさんは、途中で高校数学についていけなくなります。1年生の最初に受けた試験では195/450人と上位でしたが、卒業するときは300番より後ろくらいになり、学力を伸ばすことには苦戦したようでした。

「高校3年生からの進路選択では、文系クラスに入って私立大学を目指しました。ですが、模試を受けてみて、関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)には届かなさそうだと思いました。そこで産近甲龍(京都産業大学・近畿大学・甲南大学・龍谷大学)への進学を考え、近大と京産大を受験してどちらも合格をいただきました」