「やさしい日本語」というものをご存じだろうか。日本語を母語としない外国人にも伝わりやすい簡単な表現の日本語のことを差すのだが、これが今、外国人だけではなく、高齢者、障がいのある方、子どもとのコミュニケーションにも有効であると、各分野で大きな注目が集まっている。スポーツ界もその例外ではない。

誰一人取り残さない多文化共生社会の実現に向けて、“言葉のバリアフリー”の役割を担う「やさしい日本語」はどのように活用され、どのような可能性を秘めているのだろうか。「やさしい日本語」の普及を推進している東京都、FC東京、医療分野の取り組みをそれぞれ取材した。
※本記事の内容、所属、肩書は2024年3月取材時のものです。

災害時、外国人に早く正しい情報を伝えるために

©東京都

1995年の阪神淡路大震災で外国人の被害が多かったことをきっかけに、外国人にできるだけ早く正しい情報を伝えるようにと普及が始まった「やさしい日本語」。2011年の東日本大震災においてもその意義が再確認された。

ここで1つの例を挙げてみよう。

・高台に避難してください

これは東日本大震災時に出された警報だが、日本人にとっては特に難しいとは感じないかもしれない。しかし、外国人にとっては「高台」「避難」という言葉が理解できず、メッセージの意味がなかなか伝わらなかったという。

そこで、この「高台に避難してください」を「やさしい日本語」に置き換えると、以下のようになる。

・高いところに にげてください

基本的なポイントは「文章は短く、1文1メッセージ」「あいまいな言い方は避け、ハッキリと言い切る」「難しい言葉(漢字の熟語、敬語、カタカナ語・略語、オノマトペなど)を使わない」「漢字にはふりがなをつける」「書く時は分かち書き」「写真やイラスト、身振り手振りも使う」。
これらのポイントを踏まえて、もういくつかの例文を「やさしい日本語」に置き換えてみよう。

・こちらにお掛けください
 →ここに すわってください

・音が気になるのですが……
 →音が 大きいです。もっと 小さく してください

・喫煙はご遠慮ください
 →たばこは やめてください

・雨がザーザー降っている
 →雨が たくさん ふっている

上記例文にもあるように、今では災害時にとどまらず日常生活においても使用されるようになった。では、なぜ「正しい情報を伝えるため」の言語が国際共通語である英語ではなく、「やさしい日本語」なのか?

『未来の東京』戦略でも多文化共生社会を進める大きな柱の一つに

「やさしい日本語」の普及に取り組む東京都生活文化スポーツ局都民生活部の村田陽次さん
photo by Karin Hirokawa

「近年、日本に住む外国人の数が非常に増えています。令和6年1月時点で東京都内には約65万人、およそ20人に1人が外国人という割合です。その国籍も様々で、188の国と地域の人たちが住んでいます。ということはいくつかの言語だけでは対応できず、調べてみますと、日本や東京に住んでいる外国人は英語が分かる人も確かに多いが、それ以上に簡単にした日本語の方が分かる人の方が多いことが分かりました。その調査結果を受けて、東京都としてはこの状況に対応するために『やさしい日本語』を使っていくことが大事だという考えに至りました」

東京都生活文化スポーツ局都民生活部の村田陽次さんがこのように説明してくれた。『生活のための日本語:全国調査』(国立国語研究所/2009年)によると在住外国人で英語ができる人が44%だったのに対し、日本語ができる人は63%。また、『在留外国人に対する基礎調査』(出入国在留管理庁/2021年度)によれば、8割以上の人が「日本語で日常生活に困らない程度に会話できる」以上の日本語能力があると回答している。日常でも使うわかりやすい日本語であれば、英語よりも日本語の方がより多くの外国人が理解できる可能性があるのだ。

photo by Karin Hirokawa

「大前提として、東京都は地域において外国人も日本人もともに活躍できる多文化共生社会を推進しています。そうした社会を作っていく上ではそれぞれの地域における外国人とのコミュニケーションが非常に重要。そこで『未来の東京』戦略という計画の中にも『やさしい日本語』の普及を盛り込み、多文化共生を進める大きな柱の一つとして位置づけています」

もともとは災害時の情報伝達手段として生み出された「やさしい日本語」が、日常生活における外国人支援の一つとして広がり、多文化共生社会をつくるための大きな一歩となっている。そして、「やさしい日本語」が持つ力、可能性はそれだけにとどまらなかった。普及への取り組みを進めていくうちに、外国人のみならず高齢者、障がいのある人、子どもとのコミュニケーションにも非常に有効であることが分かってきたと、村田さんは話す。

「『やさしい日本語』が高齢者、障がいのある方たちにも有効だと知られていくと、今度は外国人に対応する関係者だけでなく、例えばスポーツ関係者、いろいろなボランティア団体、医療、社会福祉、文化施設などからも様々な方々とのコミュニケーションを円滑にしたいという相談をいただくようになりました。東京都の多文化共生は外国人との共生という形で位置づけていますが、地域におけるより広い共生の推進という考えもあり、それは外国人、障がいのある方も含めて多様な方々との共生ということ。ですから、東京都としても『やさしい日本語』を通じて後押ししていこうという流れになっています」

村田さん自身としてもまずは外国人の対応として捉えていた「やさしい日本語」だったが、今では「良い意味で大きなハレーションが起きている」と実感を込める。

FC東京が目指す「誰もが心地良いと感じられるスタジアム」

「やさしい日本語」の可能性について語る東京都生活文化スポーツ局都民生活部の村田陽次さん(左)、FC東京マーケティング本部長の平山隆史さん(右)
photo by Karin Hirokawa

ニュースなどの情報発信、交通機関、文化施設、動画教材での字幕、町内自治会のお知らせ、ガイドボランティアなど、様々な分野で「やさしい日本語」が広がりを見せている中、スポーツの分野において東京都はサッカーJリーグのFC東京と2022年からタッグを組んで普及を推進。選手が出演する啓発動画をはじめ、東京都とFC東京双方のキャラクターを使った付箋、チラシなどを作製・配布してきた。これら一連の取り組みに関して、村田さんは「『やさしい日本語』はまだまだ認知度が低いという課題があります。FC東京さんと連携してより多くの人々に知っていただき、共感してもらいたい」と、その狙いを説明。一方、プロスポーツチームの視点からは「やさしい日本語」の普及についてどのような意義を見出しているのだろうか。FC東京マーケティング本部長の平山隆史さんは次のように語った。

photo by Karin Hirokawa

「FC東京としてコミュニケーションの部分をもっと多方面に向けようと思っていた時期でもありました。外国籍のお客さんが増え、また選手、スタッフもさまざまな国籍の人がいます。そうした中ではやはり、『やさしい日本語』のコンセプトを学ぶ必要がありますし、このような考え方が普及すれば、選手、スタッフ、ボランティア、ファン・サポーターの皆さんの間でもっとうまくコミュニケーションが取れるのではないかと考えました。その意味では親和性がすごく高いなと思ったのが一番のきっかけでした」

チーム内ではもともと「『やさしい日本語』っぽいコミュニケーションを取っていた」と平山さん。自身もかつて広報担当時代に、通訳のいないタイ国籍の若手選手と簡単な日本語で会話していた経験もあったことから、「自分の原体験からも必要と感じたことでしたし、同じような体験をしてきた選手、スタッフ、ファンがたくさんいるからこそ親和性をもって進められたと思っています」と話す。

スタジアムで配布されたチラシや、ボランティア研修に使用された資料など
photo by Karin Hirokawa

東京都とFC東京の取り組みは動画、チラシ配布などでの啓発活動だけではなく、チームスタッフやボランティア向けの講習という形でも進められている。

FC東京・スポーツボランティア向けに開催された「やさしい日本語」研修の様子
photo by Adventurous

「ボランティアさんの中には実際に外国籍のお客さんが来た時にしゃべれないという人も多かったのですが、講習をきっかけに全然怖がらずに日本語で話しかけるようになった方もいました。その姿を見て『あれでいいんだ』と思ったボランティアさんがさらに話しかけるという、そうした連鎖がうまく回るようになったと思いますね。体験とあわせて、体系的に学べる機会があり、知識として蓄積できるのは非常にありがたいです」

今年3月9日には村田さんを講師に迎えての2度目の講習が行われ、スタッフ・ボランティアは熱心に耳を傾けていた。FC東京・スポーツボランティアで運営コーディネーターとして活動する小林紘三さんは「まだまだこれからだと思いますが、ボランティアにとってもこれからの一番のポイントはインバウンド対応。今後、積極的に『やさしい日本語』を使っていけるようになれば」と手応えを感じている様子。また、最近は障がいのある人がスポーツボランティアへの参加を希望することも増えており、その受け入れでも活用していきたいと話す。

photo by Karin Hirokawa

FC東京が目指すのは、誰もが心地良いと感じられるスタジアム。そのための一つの有効手段となり得る「やさしい日本語」を通じて描く将来像について、平山さんはこう語った。

「スタッフ、ボランティアが『やさしい日本語』を知ることで外国籍の選手、お客さんにより心地良いと感じていただける、より楽しんでいただけるきっかけになる可能性があると思っています。簡単な日本語、あるいは簡単な英語でもコミュニケーションを楽しんでいただけるような環境を作っていきたい。そのためには継続が大切。これまでは『やさしい日本語』を『知ってもらう』段階でしたが、次は『使ってもらう』段階に入れるような取り組みをしていきたいです」

「やさしい日本語」で患者と医療者双方の不安が解消される

東京都と順天堂大学が連携・協働して実施する「医療現場への「やさしい日本語」導入・普及事業」シンポジウムの様子
photo by Karin Hirokawa

現場での実際の活用という点で今、加速しているのが医療の分野だ。医療関係者への「やさしい日本語」の啓発・普及は2018年からスタート。2022・23年度は東京都と順天堂大学が連携して、“医療現場への「やさしい日本語」導入・普及事業”を展開した。講習会・ワークショップ形式での対面研修、動画を用いての学習のほか、在住外国人が模擬患者となる参加型学習などを実施。地域研修は都内15市区で開催し、対面での出前研修・地域研修は2年間で51回、参加人数は2117名に上り、オンライン研修も34回実施してきた。その結果、日本語を母語としない外国人患者と接する際にも「不安を感じない」と回答する医療者の割合が増えるなど、「やさしい日本語」の重要性が医療界で認知され始めている。

また、東京都と順天堂大学が協力して「やさしい日本語」の普及に関するシンポジウムを2022年11月から4回実施し、約2200名の医療関係者が参加した。今年2月24日にはシンポジウムの最終回が開かれ、これまでの事業報告、今後の展望などが発表された。

これらの活動の先頭に立っているのが順天堂大学大学院医学研究科の武田裕子教授だ。

photo by Karin Hirokawa

「実は私自身、外国人の患者さんの対応に課題があることに気が付いておらず、英語で大丈夫と思っていました。日本に住んでいる外国人は英語よりも日本語を理解できる人の方が多いことを知らなかったのです。外国人の患者さんのお話を伺うと、『ことばの壁』は非常に高く、本当に困っていると実感しました。一方、医療者の側にも不安がありますが、『やさしい日本語』の研修を行うと、その不安の程度が減り、外国人の役に立ちたいと思う参加者が増えたのです。これは大事なことだと改めて思いました」

「やさしい日本語」の普及を推進していくうちに、村田さん同様に高齢者や障がいのある人にも有効だと知るようになるなど、「毎回新たな気づき、発見がある」と武田教授。最近でも高齢者のお宅に訪問診療した際に「やさしい日本語」に切り替えてやり取りしたところ、「患者さんがホッとされた表情が忘れられないです。患者さんの不安を取り除くことなんてそうそうできることではない。それが『やさしい日本語』でできるのであれば、医療者みんなにマスターしてほしいですね」と振り返った。順天堂大学では医学部4年生の授業で「やさしい日本語」を必修にしているという。医学教育を専門とする自身の経験から、「やさしい日本語」を医療系学生の必須科目にしてほしいと、武田教授は語る。

NPO法人国際活動市民中心(CINGA)の新居みどりさん
photo by Karin Hirokawa

一方、「やさしい日本語」を武田教授に紹介したNPO法人国際活動市民中心(CINGA)の新居みどりさんは今後の普及に関して、次のようなビジョンを描いている。

「人権教育、啓蒙と言ってもなんだか難しいと感じて耳を傾けてくれる人は少ないと思います。でも、コミュニケーションの一つの方法だと知ってもらえれば、やってみようと思っていただける人も多いのではないでしょうか。そこに大きな可能性を感じています。医療者の方々ができたのなら他の職種でもできると思っていますし、それはコミュニケーションの持つ力だと思っています」

2025年のデフリンピック、世界陸上でさらなる認知拡大を期待

「やさしい日本語」のスポーツ界での普及発展へ期待を語る武田教授と新居さん
photo by Karin Hirokawa  

また、FC東京をはじめとしたスポーツ界での取り組みに関して、武田教授は「スポーツを通じて小さいころから『やさしい日本語』に触れればもっとハードルが下がると思います。学生は柔軟なのであっという間にマスターしてしまう。スポーツの入り口でも何でもいいので、『やさしい日本語』の存在を当たり前に誰でも知っているようになるといいですね」と新居さんとともに期待を寄せる。

2025年には、日本初となるデフリンピックが東京で開催される。順天堂大学も全面協力していくという。聴覚に障がいのある人とコミュニケーションを取り、手話通訳者を介して会話する上で、「要点を整理」して「1文1メッセージ」で伝える「やさしい日本語」は非常に役立つと武田教授は話す。また、東京都では同じく2025年に東京で開催される世界陸上と合わせた「ビジョン2025 アクションブック」内に明記するなど、「『やさしい日本語』」をいろいろな取り組みに盛り込む方向で検討を始めています」と村田さんは語る。世界陸上、デフリンピックのような世界規模の国際スポーツ大会で「やさしい日本語」のことが周知されれば、世間への浸透スピードも加速していくのではないだろうか。

東京都、FC東京、医療分野と取材を進める中、「やさしい日本語」の普及に関して共通して聞こえてきたキーワードは、取り組む上での「敷居・ハードルの低さ」。確かに、日本語を話す日本人にとっての「やさしい日本語」は新たに覚えなければいけない言葉ではなく、ちょっとした工夫と相手への思いやりがあれば今からでもすぐに使える言葉。それは相手にとっても同じことで、互いの思いやり・歩み寄りを「やさしい日本語」に乗せることで温かいコミュニケーションが生まれるだろう。多文化共生社会をつくっていく重要ツールとして、「やさしい日本語」はこれからの時代に欠かせないものとなりそうだ。

text by Atsuhiro Morinaga
edited by Adventurous
photo by Karin Hirokawa