長大な堤防を築いて城を沈める前代未聞の戦術
まずは、秀吉がはじめて水攻めを行った天正10年(1582)の備中高松城の戦いから。備中高松城(岡山県)は低湿地帯にあり、城周辺の泥に足を取られるため力攻めが難しい一方で、大雨が降ると周囲一帯が水没するという弱点を抱えていました。季節は折しも旧暦5月(現在の6月)。梅雨を利用すれば城を孤立させられると踏んだ秀吉は、堤防の普請に着手します。こうして造られたのが、全長約3km、高さ約7〜8m、底部約20〜24m、上幅約10〜12mの堤防。土塁の規模から推定すると、盛り土に必要な土砂は約38万5976㎥(東京ドームの体積の約1/3)。大規模な築堤であったことがうかがえます。

この築堤工事は開始からわずか12日で完了。付近を流れる足守川の水を引き込むと、城周辺には水がたまりはじめます。さらに、秀吉の狙い通り長雨によって、数日後には城外はもちろん本丸まで水没させることに成功。約1か月の包囲の後、備中高松城はついに開城します。

秀吉の水攻めといえばこの備中高松城が非常に有名ですが、天正13年(1585)にはさらに規模の大きな水攻めを行っています。それは太田衆・雑賀衆・根来衆ら紀州の武装集団を屈服させた紀州攻めの最終局面・太田城攻め。
この戦いで秀吉が築いた堤防は全長約5km。高さや幅も備中高松城のものから数m大きくなっています。さらに驚くべきは築堤にかかった工期。備中高松城の半分以下である5日間(6日とも)でこの長大な堤を築いたというのです。

さらに、秀吉は水を流し込んだ太田城(和歌山県)に船で攻撃を仕掛け、敵を追い詰めていきます。はじめは太田城の兵たちも堤防の破壊など抵抗を試みますが、1か月もすると兵糧や物資が底をつき籠城は続けられない状態に。城内の中心人物53名の自害と引き替えに城兵と民衆を助けるという条件で降伏します。