男子15人制トレーニングスコッド合宿に参加しているWTBヴィリアミ・ツイドラキ

 ラグビー日本代表の選手育成、強化などを目的とした「男子15人制トレーニングスコッド」合宿が5月20日から10日間に渡り長野・菅平で行われている。リーグワンプレーオフ決勝トーナメント、入替戦に出場するチームを除く5クラブから選出された33人が参加。6月の代表合宿行きを懸けたサバイバル合宿で、日本生まれ、フィジー育ちの経歴を持つWTBヴィリアメ・ツイドラキ(トヨタヴェルブリッツ)が単独インタビューに応じた。父は同じトヨタでトライゲッターとして活躍して、日本代表でも1999年ワールドカップ(W杯)に出場した故パティリアイ・ツイドラキさん。祖国フィジー代表への挑戦を捨てて、5歳で死別した父の後を追う決断と第2の祖国への思いを聞いた。(取材・文=吉田 宏)

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 南海のトライゲッターが、亡き父と同じ足跡を歩む。

「選ばれた時は、すごく緊張しましたね。ずっと夢だった。なんだか体の毛がピンと立つような、信じられない感覚でした」

“日本代表”という文字は一切入らない「トレーニングスコッド」と名乗るキャンプ。だが、菅平のピッチで陣頭に立つ日本代表エディー・ジョーンズ・ヘッドコーチ(HC)のしゃがれた声を聞けば、この合宿の重要さは明らかだ。ヴィリアメ自身は摂南大時代に代表のセカンドチームに当たるジュニア・ジャパンに選ばれているが、6月9日からの代表合宿へ生き残りを懸けたサバイバルレースは、“パットの息子”にとっても、桜のジャージーに最も近づいたことになる。

「実際に練習をしてみると、クラブ(ヴェルブリッツ)のラグビーとは結構違いますね。皆が高いレベルの選手ばかり。だから自分もいつもよりハードにトレーニングに取り組まないといけない状況です。もちろん3年後のW杯が大きな目標です。父のように日本代表でプレーしたい」

 ヴィリアメが追う父パティリアイ・ツイドラキさんは、別格の快足とステップで日本ラグビー界を駆け抜けた。1995年にトヨタ自動車でプレーするため来日すると、97年には日本代表入り。当時の規約で、フィジー代表経験者ながら日本代表の資格を満たしていた。99年W杯では、全3試合中2戦で先発。ウェールズ戦でトライを決めるなど世界にスピードを印象づけた。

 アスリートとしての能力と同時に、どんな時でも明るさを失わない人間性も大きな魅力だった。選手、スタッフ、ファン誰からも「パット」と呼ばれ愛された。その一方で、ラグビーへの真摯な向き合い方も一流だった。代表入りしたパットさんを取材して、いまでも忘れない言葉がある。

 W杯を前にした99年6月に、日本代表がパットさんの母国フィジー代表と対戦する前のことだ。母国であり、パットさん自身も一緒に戦ったフィジー代表との真剣勝負。国際化が進むいまでは珍しいことではないが、当時の日本では異例の境遇に、「自分の国との試合に戸惑いはないのか」と聞くと、片言の日本語が返ってきた。

「ワタシ、フィジー、コロシマス」

インタビューに応じ、亡き父と第2の祖国への思いを語ったヴィリアメ【写真:吉田宏】

5歳で訪れた父パティリアイさんとの突然の別れ

 もちろん、殺すほどの闘争心でプレーするという意味合いだが、祖国の仲間にそんな言葉を浴びせるほど日本代表として戦うことに誇りを持っていた。日本選手以上に自分たちのジャージーへの忠誠心、代表で戦うことへのプライドに満ちた姿勢は、多くの日本選手が学ぶべきだと感じていた。

 その快足ランナーには、自らの人生をも早すぎるフィニッシュが待っていた。トヨタを退団してフィジーに戻った2002年、心臓発作のため33歳という若さで人生のノーサイドを迎えた。ヴィリアメはわずか5歳だった。フィジーでの葬儀には、早すぎる別れを惜しんでパットさんが来日した時のトヨタ自動車監督で、息子のようにかわいがっていた平井俊洋さんらも駆け付けた。

 ヴィリアメは当時をこう回想する。

「まだ5歳だったので、感情的にはならなかったですね。もちろん葬式には、日本からも含めてあまりにも多くの人が来ていたので、それはすごく覚えています。どれだけ父が慕われていたのかという記憶は残っています」

 5歳で死別した父パットさんだが、選手としての記憶はほとんど残っていないという。

「選手としての記憶はあまりないですね。でも、いろいろな人から沢山のビデオをもらったので見ています。あの時代ではすごい選手だと思いました。小さい選手(180cm、77kg)だったが、スピードがあり、大きなハートを持った選手だったんだなと思います」

 プレーヤーとしては動画で偉大さを再認識したが、父親としての記憶はしっかりと脳裏に焼き付いている。

「家族に対しては、本当に面倒をよく見てくれました。合宿とかですごく忙しかったはずですけれど、家に帰ってきてくれた時にはラグビーをやったり、公園やレストランに連れて行ってくれたり、一緒に過ごしてくれました。いつも僕たちを優先順位の1番に考えていてくれたと思いますよ」

 チームの練習場でも、父の練習が終わるまで兄バティリアイとサイドラインの外側を走ったり、練習後に公園で遊んだ。家族思いのパットさんの、忘れられないエピソードも記憶に残っている。

「アウェーの試合の時、トヨタでは関係者やファン、家族をバスで試合会場へ連れて行ってくれるんです。選手はもちろんチームバスで移動していたが、帰りに父がチームを離れてファンのバスに僕らと一緒に乗ってくれたんです。週明けには、コーチからすごく怒られたらしいですけどね」

 そんな父の記憶を辿りながら、ヴィリアメは亡き父の足跡を追い続ける。

高校卒業後、地元でラグビーをしている時に唯一誘ってくれた摂南大

「フィジーにいる時は、日本には『帰りたい』という気持ちでした。でも、向こうで暮らしている間は、そんなチャンスはほとんどなかった。高校を卒業して2年間、地元でラグビーをしているとき、唯一誘ってくれたのが摂南大だった」

 長らく摂南大を率いた河瀬泰治総監督は、ヴィリアメ来日の経緯をこう振り返る。

「パットがプレーした時代、トヨタで監督をされていた平井さんから相談があったんです。パットの息子を留学生で受け入れてほしいとね。必ずいい選手になるからと」

 パットさんがヴィリアメのミドルネームに「ヒライ」と付けたことが、この日本人監督と快足トライゲッターの関係を物語る。あまりにも早くに世を去ったパットさんに代わって、平井さんが息子たちのことを支える。こんな太平洋を越えた絆も、パットさんの愛されるキャラクターの遺産のようなものだろう。

 ヴィリアメが摂南大1年の冬にジュニア・ジャパン入りしたことで、父と同じ日本代表に入りたいという夢が現実的な目標に変わった。実はヴィリアメは日本生まれだったために日本代表有資格者だったが、本人は気付いていなかったのだ。

「日本に来た当時は、代表になれるかとは考えてもいなかった。いろいろなルールがありますからね。ジュニア・ジャパンに選ばれる時に、日本協会から僕にコンタクトがあるまで知らなかった。そこで、ああそうなんだ、正代表に選ばれるチャンスがあるんだと分かったんです。この時に、ようやく本気で代表に入りたいという思いになりました」

 当時のジュニア・ジャパンにはSH齎藤直人(現東京SG)、No8福井翔大(埼玉WK)ら日本代表、リーグワンで活躍する仲間も多い。だが、ヴィリアメの卒業後の進路は容易には決まらなかった。

「大学3年の時に仲間は、社会人チームから声をかけられていた。でも自分にはあまり誘いはなかった。トヨタでプレーできれば最高だったが、きっと呼んでくれないと思っていた。だから、どんなチームでも声をかけてくれれば有難かった」

 ヴィリアメのはやる気持ちに、河瀬監督は「トヨタでプレーするべきだ。他のチームに入る決断を急がず待つんだ」と何度も言い聞かせた。もちろん人事権はないが、平井さんらが、チーム、会社関係者にヴィリアメの入団を持ち掛け、プッシュしていたからだ。本人が4年生になってから、ようやく待望のオファーが届き、父と同じ深緑のジャージーに袖を通すことになった。

「すごくハッピーでしたね。兄(バティリアイ)もトヨタに入っていたので。息子2人が(父親とも)同じチームでプレーすることになりましたからね」

 入団2シーズン目の22-23年はFB兼WTBで16試合中15戦に先発。今季はほぼWTBで、主に父と同じ11番を背負って13試合で先発メンバーに入った。チームで定位置を掴み、父も纏った桜のジャージーに手が届くところまで迫るが、ヴィリアメの自己採点は厳しい。

「(ヴェルブリッツで)プレー時間をもらったのはありがたいと思いますが、まだまだ自分のポテンシャルに近づけてない。この合宿に来ても、自分のベストのバージョンを見つけていくという点では本当に大きなチャレンジになっているなと感じています。特に伸ばしたいのはディフェンスですね。他には、選手とコミュニケーションをとって繋がっていくこと。僕は日本でベストじゃなくて世界でベストになりたいんです。そのためにはこういう選手たち、こういう環境、こういうコーチの中でプレーすることが第一かなと思います」

合宿で指導しているエディー・ジョーンズHC【写真:吉田宏】

ジョーンズHCも潜在能力に期待「本当にポテンシャルの高い選手です」

 今回の合宿でジョーンズHCは、6月9日から始まる日本代表合宿は33人で行うと話している。この絞り込んだ人数でイングランド、イタリアなどとのテストマッチに挑み、同時にジャパンXVが別働隊としてニュージーランド先住民系代表マオリ・オールブラックスとの2試合(6月29日、7月6日)に挑む。リーグワンプレーオフを戦うトップ4らからの招集を考えると、今回の菅平から宮崎へ進めるのは10人に満たない見通しだ。ヴィリアメにとっても狭き門になるが、指揮官は日本生まれのフィジアンをこう評価している。

「ツイドラキは27歳だが(経験値では)若い選手だと思います。でも、パワーもあるし、空中戦のスキルもある。本当にポテンシャルの高い選手です」

 指揮官にとっても、1995年にオーストラリアから来日して翌年1シーズン日本代表コーチ(FW担当)も務めた時に、トヨタ自動車、その後に日本代表で活躍していたパットさんの息子が、こうやって桜のジャージーに手の届く位置まで成長したのは感慨深い。184cm、97kgというサイズに、フィジアンならではの卓越した跳躍力を、戦術的なキックを多用する現代のラグビーで生かせれば、父とはまた異なる魅力で、正代表へとジャンプアップするポテンシャルを秘めた存在なのは間違いない。

 最終ゴールは来月からの宮崎ではなく、3年後にオーストラリアで幕を上げる夢舞台。パットの息子が次回W杯で桜のジャージーに袖を通せば、28年という時間を跨いで父と同じ30歳で祭典のキックオフを迎えることになる。

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【代表枠は9?】今回の合宿について、日本代表のエディー・ジョーンズHCは「これはあくまでもトレーニングスコッド合宿。(プレーオフ、入替戦不出場の)5チームだけから選んでいるので、自分がセレクションの対象になれるのかという意味でいい機会だと思う。そこからイングランド代表戦のメンバー23人に入るために、どれだけ上がってこられるかだ」と若手メンバーの奮起を求めた。

 菅平を合宿地に選んだことについては「このラグビーの魂のような聖地に戻ってきたいなと思っていた。トレーニング施設も素晴らしいし、ラグビーしか重要じゃないような場所だから」と説明する。

 また、合宿の狙いとしては「まずはチーム再構築する必要ある。いちばん大きいのはフィジカルのところ。1日3回の練習をしています。私たちの目指すラグビーが出来るための、本当にベストなフィジカルコンディショニングに持っていきたい。(2月の)福岡合宿では、プレーのやり方、概念を落とし込んでいくことが目的だったが、今回はさらに多くのコーチ陣も来ているので、もっと細かいところを落とし込んでいます。もちろん、どうやってイングランドに勝っていけるかも練っています」とテストマッチへの準備も進めている。

 練習メニューを見ると、ラインアウトでのレシーバー、リフター以外選手のポジショニングや、7m四方のグリッドを1人の選手がプレーするスペースと設定して、その中でどうポジショニングし、どう動くのか、そしてアタックラインに並ぶ選手の位置取りなど、1か月後に始まる代表戦に使っていくプレー、考え方も細かく落とし込み始めている。

 同HCは、6月の宮崎合宿は2027年W杯登録枠と同じ33人で行うと説明。プレーオフ組からは24人の選出を考えているため、菅平組からは9人程度が選出される見込みだ。この33人以外の編成で、マオリ・オールブラックスと2試合を行うジャパンXV(フィフティーン)が編成される方向だ。

【秘密兵器はサウナ!】 合宿を張る「ゾンタック」にサウナがオープンした。合宿に合わせて、5月19日にジョーンズHCによる“火入れ式”も行い、多くの選手も毎日利用している。

 サウナはコンテナを改装した特注品で、同時に12人ほどが入れる。宿舎本棟の目の前にあるミニグラウンドに作られ、横には既存の地下水が注がれる巨大なアイスバスもある。ゾンタックの常連でもある同HCの強い希望もあり作られたもので、「(日本語で)サイコー。朝6時に入っています。110℃ですよ。10年若返える気分。合宿が終わる頃には45歳になっているかもね」とご機嫌だ。

 不安材料があるとすれば、選手が整い過ぎてラグビーどころじゃなくなることか?

(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)

吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。