いまから150年以上前、山口県内から輩出した多くの人材が明治維新の一翼を担った。各界で日本の近代化を主導した者がいる一方で、早々に非業の死を遂げた無名の人たちも。先人に思いをはせる誕生祭や供養祭が営まれ、企画展も開催中だ。(大室一也)

 兵学者、大村益次郎(1825〜69)の生誕200年記念祭が故郷の山口市鋳銭司にある大村神社で4月21日にあった。

 大村は大阪の適塾などで蘭学や医学を学び、長州藩で兵学を教え、軍制改革を担当。幕府との戦いを指揮して勝利を収め、近代的な軍隊創設の責任者となったが、反発する士族に襲われ、命を落とした。

 記念祭は地域住民らでつくる奉賛会が主催し、神社の春祭に合わせて開かれた。大村家6代目当主の和敏さん(84)が東京から招かれ、記念碑(高さ2メートル)の除幕式があった。

 和敏さんの祖父は毛利家からの養子で、大村家は現在、毛利家の分家の扱いという。和敏さんは「益次郎はあまり人に愛されるタイプじゃなかったらしい。後世になって、皆様の温かいご協力に感じ入ります」と謝辞を述べた。

 山口市の伊藤和貴市長はあいさつで、益次郎は医学者、洋学者、兵学者、教育者として比類なき識見を持ち、「維新10傑の1人」と称されていると話し、「功績は生誕200年経った今日に至っても色あせることなく、市民の大きな誇り」とたたえた。

 ゆかりの適塾や宇和島城(愛媛県)など10枚の図柄で益次郎の生涯をふり返る生誕200年記念のフレーム切手が、式典の前に日本郵便から和敏さんと伊藤市長に手渡された。

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 奇兵隊などの「諸隊」に加わって戦った多くの民衆が長州藩にいた。明治に入り、山口藩政府によって処刑された農民出身の隊士の供養祭が4月18日、山口市徳地文化ホールで開かれた。徳地史談会の会員ら約30人が位牌(いはい)に手を合わせた。

 徳地では江戸時代末期、藩政府による解散命令を無視した奇兵隊が本陣を置いたり、地元の農民が部隊を結成したりした。

 旧幕府軍などとの戊辰戦争後、藩政府はふくれあがった諸隊の人員整理を断行。これに反発して騒動を起こした隊士の首謀者らを処罰した(脱退騒動)。1870(明治3)年の4月18日、徳地でも農民出身の隊士11人が処刑された、と徳地町史にある。

 徳地史談会によると、藩政府への報告書に徳地で大規模な武力衝突が起きたとの記述があるが、それを裏付ける史料はない。処刑前に隊士らが「なぜだ!」と叫んでいたという話が地元に伝わっている。当時は凶作で、農民と連帯して一揆に発展することを恐れた藩政府が、隊士らを捕らえて処刑した可能性があるという。

 諸隊の兵は「隊中」と称される。同会の山田文雄会長(76)らは11人を「徳地の隊中様」として、明治維新から150年経った2018年から供養を始めた。山田会長は「彼らは脱退騒動のあおりを受けてむごい扱いを受けた。今後も顕彰を続けていきたい」と話す。

 同市黒川の平川地区でも、脱隊騒動で戦死した「隊中様」を毎年4月9日に供養している。