『「音」と「声」の社会史』 [著]坂田謙司

 「音」と「声」を様々な角度から考察した本である。しかもその画期は、まちがいなくこの数年の新型コロナウイルス感染の流行にあると著者は言う。社会からの「音」と「声」の喪失という事態が、人と人との関係を著しく変えてしまった。確かに平成の地震と自然災害が社会変容をもたらしたように、いやそれ以上に令和のコロナ禍は今も社会変容をおこしつつある。
 そんな中で、著者は、第Ⅰ部を総論的に、第Ⅱ部を各論的に、そして第Ⅲ部を持論的に、「音」と「声」の社会の実態に迫っている。
 それはまた私の「音」と「声」の研究、すなわち「オーラル・ヒストリー」のあり方への示唆を促す。「傾聴」という作業を通して、わがオーラル・ヒストリーは断じて「聞く」行為ではなく、「聴く」行為なのだと分かる。さらに「語り部」が声で何を伝えるのか。言語に記憶と感情が合わさった特別な音声メディアとして「声」を捉えると、オーラル・ヒストリーと語り部は異なる存在となる。
 さて各論の白眉(はくび)をなすのは、声のジェンダーを扱う5章と6章である。女性の声が実はいかにこの社会に遍在していたか。著者のバスガイドや女性アナウンサーの議論は、「地域文化」を支える主体が、目につく男性を支える目立たぬ女性にあったとする最近の発見にもつながるのではないか。
 さらに7、8章では、音や声を残そうとする欲望から、オルゴールやレコード、ナロウキャストラジオといった閉じた音声メディアを扱う。人間のあくなき音への業を感じさせる。終盤の9〜11章では、音や声の権力性に迫っている。世間には子どもの泣き声を「騒音」と考える人もいるが、受け止め方は様々であろう。まさに人を苦しめる音や声の解決の難しさを問うことになる。いつの時代にも通底する難問に他ならない。
 玉音放送をめぐる天皇の声についても、著者は声の分析を通して解を示す。おそらく「聴く」臣民に対して、天皇の声は意味不明だった。しかし初めて天皇を「聴く」行為によって、臣民は敗戦を理解した。声の神秘性のなせる技だったのであろう。
 著者の目配りはよく行き届いている。機械類への接触感覚、それに新聞の社会面記事への限りない好奇心など、中年から音の研究に向かった著者の気分のうえでのおおらかさがよく感じられて面白い。そう言えば、著書の中に、常にオーラル・ヒストリーへの接点を見いだしつつ、この本は逆説的な意味での著者のオーラル・ヒストリーに他ならないのだと確信した。
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さかた・けんじ 1959年生まれ。立命館大教授。専門はメディア社会史、音声メディア論。著書に『「声」の有線メディア史』『博覧の世紀』など。