ネットの普及により、分断が進んだということがよく指摘される。結果、左派は「右傾化」を、右派は「左傾化」を憂いたり、非難したりする光景がX上その他では頻繁に見られるようになった。

 新聞やテレビなど大手マスコミに関して言えば、「左寄り」だと指摘されることのほうが多いかもしれない。「権力の監視」が存在意義の一つであり、日本においては、「権力」イコール保守系政党という時代が長いからだ。

 もっとも、取材の現場で見た「マスコミが左傾化する理由」には、もっと身もふたもない事情もあるのだ、と明かすのは元産経新聞記者の三枝玄太郎氏である。約30年の記者生活を振り返った新著『メディアはなぜ左傾化するのか 産経記者受難記』で、三枝氏は現場での経験をもとにライバルの朝日新聞記者の過去、そして新聞記者が「市民運動」にシンパシーを持つ事情を明かしている(以下、同書をもとに再構成。前後編記事の前編)。

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朝日も読売も毎日も落ちて

 僕が産経新聞に入社したのは1991年4月だった。

 産経新聞に入った理由は単純だ。そこしか受からなかったからだ。僕は早稲田大学在学中、右派的な学生ではなかったし、むしろ心情的には反体制を気取っていた。

 新聞社はもちろん朝日も受けた。

 筆記試験で落ちた。

 大体、リヒテンシュタインの元首を答えよ、などという問題を出されても分かる訳がない。読売も毎日も1次面接で、日経新聞も2次面接で落ちていた。残るは産経新聞と東京新聞しかない。

 事件記者になれれば良いという安直な気持ちだから、面接官にも見透かされる。

「弱者のために働きたいです」と言ったら、毎日新聞の部長さんから「だったら弁護士になれば良いだろう」と返され、絶句した。そこで面接は終了だった。

 これはマズい。全滅したら就職浪人だ。新聞社以外受けていなかった。産経新聞を取り寄せて、慌ててむさぼるように読んだ。

 当時の産経抄の担当で、名文家として社内外で知られた石井英夫さんが、湾岸戦争のサダム・フセインに関して「こういうならず者にはコツンと一発、体罰を与えなければならないのだ」と評していた。「おいおい、戦争を正当化するのかよ」と思う程度には反体制派学生のつもりだったが、残るは産経1社だからそんなことは言っていられない。すでに東京新聞も役員面接であえなく落とされていた。

 最終面接で試験官から「今日の産経の1面がここに置いてあります。思うことを述べてください」と1面記事を大写しにしたボードを示された。運のいいことに湾岸戦争の記事があった。

「ええっと、サダム・フセインのような国際秩序を守らない輩は、多国間で封じ込めないと、第二、第三のフセインが出現します。アメリカの行動を支持します」

 と言った。産経の役員たちは我が意を得たりとばかりにウンウンと頷いていた。産経新聞から内定通知をその1週間ほど後にもらった。

冤罪のデパートとしての静岡

 研修が終わると、1年生は地方支局に出される。実家が当時は横浜市内にあったので、横浜総局には行けないルールだ。それならば、静岡を希望しようと思った。

 というのも、静岡県は戦後、死刑に値する重大な殺人事件で無罪判決を続けて出していた。弁護士や救援団体は「西の山口、東の静岡」とか「静岡県警は冤罪のデパート」などと蔑称していた。

 僕は高校時代から冤罪事件に魅せられていた。大学卒業時の旅行は「全国著名冤罪事件ツアー」だった。早稲田の政経学部で同じクラスだった仏像好きの友人を誘い、尾道の千光寺に行くという交換条件で九州まで往復した。島田事件、豊橋事件、財田川事件、八海(やかい)事件、免田事件と西進して現場を回った。

 それくらいのオタクだったから、冤罪のデパートとは、どんなところだろうか、と興味が湧いたのだ。

 その希望が通り、無事、静岡支局に配属となった。

女性記者が喜んだ理由は

 研修を終えて5月から静岡支局に配属され、その後、1カ月にも及ぶ連続の宿直勤務という「修行」が明け、ようやく静岡中央署、南署という市内の警察署を任されることになった。

 記者クラブに行って、朝日、毎日、読売……と各新聞社のボックスを回って名刺を配る。1社あたり3畳ほどのボックスに仕切られていて、そこに産経、朝日、NHK、毎日、静岡朝日テレビ、静岡第一テレビ、テレビ静岡、中日新聞、読売新聞、静岡新聞と静岡放送の順に分けられていた。

 朝日にも僕と同期の記者が二人いた。Nくんと、もう一人は、今は名前も覚えていない寡黙な青年だった。Nくんは快活で、口を開けば警察の悪口を言っているような感じだった。どこかで会ったことがあるような気がするが思い出せない。

 僕よりも遅れて、ある日、毎日新聞に新人記者が配属された。女性だった。

 その人があいさつ回りに来た。僕とは全く話が弾まず、ものの数秒で産経のボックスを出て行ったが、隣から「あっ、Nさんじゃないですか。私、X女子大の学生委員会にいたときから尊敬しておりました」とまるでアイドルに出会ったかのような嬌声が聞こえた。

教授を怒鳴っていた彼だった

 そこでやっと思い出した。大学4年生の頃、成績は低空飛行で、「不可」が一つでもあれば、履修単位が足りずに留年という瀬戸際だった。その後期試験で降って湧いたのが「学費値上げ反対スト」だった。早稲田に文字通り、赤旗が舞った。ストライキになれば、試験はなくなり、レポート提出で事足りる。当時、僕のように手に汗を握って推移を見守った一般学生は大勢いただろう。

「団体交渉」という名のもとに、学生委員会の委員長が渉外担当の教授と交渉する。

 とはいえ、交渉といっても名ばかりで、事実上はまるで文化大革命の吊るし上げみたいなもので、政経学部の学生委員長が「お前じゃダメだ、学部長を出せ。良いから出せ」とハンドマイクで教授の耳元で怒鳴り散らしていた。

 毎日新聞の女性記者の嬌声で、そのときのことがふと思い出された。

「学部長を出せ。お前じゃ話にならない」

 朝日のNくんは教授の耳元で怒鳴り上げていた学生委員長その人だったのだ。

 その吊るし上げ集会は早稲田の3号館前の広場で行われていた。誰かが「法学部はスト突入」と叫び、ウワーッという歓声が上がった。

「文学部もスト突入!」

 またウワーッと大歓声が上がる。

 しかし、政経学部はNくんの怒声と「学部長を出せ」の繰り返しで、埒(らち)が明かない。冬の昼は短い。辺りは闇に包まれてきた。

「ひょっとしたら、政経学部だけ筆記試験をやることになったりして。そうなったら終わりだ」と気が気でなくなってきた。1期下で仲が良かった友人と正門のそばにある地下の喫茶店に入ったり出たりを繰り返したが、なかなか決まらない。

「また行ってみようか」と1時間ほどして、友人と連れ立って喫茶店を出て、3号館に行くと、まだやっていた。

「商学部でスト決行!」「ウワーッ」と歓声が上がった刹那(せつな)、友人がブチ切れた。

「いつまで同じことやってんだ、バカ野郎」

 とそばにあった立て看板を蹴ったのだ。

「ガーン」と大きな音がしたので、Nくんら学生委員会の幹部連中とその取り巻きの目が一斉に僕らに注がれた。

「バカ、逃げるぞ」と言って、校外まで全速力で逃げた。誰も追ってこなかった。ストは夜遅くに決まった。あのときにハンドマイクで叫んでいた青年が朝日に入り、やきもきしていた成績低迷の僕は産経に入社した。

早稲田と革マル派の深い関係

 当時、早稲田祭実行委員会は革マル派が仕切っているとも囁かれていた。来場者数は延べ20万人にも及ぶといわれる早稲田祭に入場するには、パンフレットを当時、500円で購入しなければならなかった。これが革マル派の多大な資金に化けたことは想像に難くない。

 政経学部の学生委員会も革マル派の影響力が強いといわれていた。1972年には中核派とみなされた早稲田大の第一文学部の学生が、角材などで革マル派の学生に滅多打ちにされて死亡した事件も起きている。

 僕の卒業後、1994年に早稲田大学総長に就任した奥島孝康教授は、革マル派の排除に乗り出した。1997年には千葉市中央区にある早稲田大学法学部教授の自宅の電話が革マル派に盗聴される事件が発覚し、警視庁は革マル派非公然活動家10人を指名手配した。1997年から2001年まで早稲田大学は早稲田祭を中止する措置を取った。

新聞記者が労組の職員に

 Nくんとはそれなりに仲が良かったが、彼はほどなくして朝日を辞めた。

 それから10年以上経ったある日、国税担当になった僕は、ある全国的な組織を持つ労働組合が東京国税局査察部に強制調査(査察)を受けた際、国税や特捜部の係官が段ボールを押収して車に積み込むおなじみの写真を撮ろうと、その組合に急行した。建物の外で推移を見守っていたら、何とNくんが出てきたではないか。

「おうっ、N、ひさしぶりじゃないか」

 と言ったら、彼はバツが悪そうに、

「カネの話は抗弁できない。取材は拒否だ」

 と苦笑いを浮かべて建物の中に消えた。何と朝日を辞めて、労組の職員になっていたのだった。

 毎日の女性記者はその後も毎日にいて、特派員として活躍している。

 彼女がデスククラスにでもなれば、新入社員を採用する一次試験の面接担当官くらいにはなるだろう。また左派系の学者のゼミに入っていて、その担当教授から推薦をもらって朝日や毎日の面接を受けている学生は多いだろう。こうして左派系のある意味で「色のついた学生」の系譜は絶えることなく続いていくのだと思う。

 朝日や毎日新聞の記者の中には、明らかに活動家系の記者がいる。その記者が事件を担当する官庁を経験したという話は寡聞(かぶん)にして知らない。別に事件持ち場をやらなければ新聞記者ではない、といった時代錯誤なことを言うつもりはない。ただ、その記者が書く記事、書く記事、いつもそうした「界隈の人々が喜ぶ記事」ということは、その記者はそれ以外に書きたい記事はないのだろうか、と邪推してしまう。

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 実は記者個人の性向とは別に、記者クラブの記者たちには、ある種の「偏り」を持ってしまう事情があることに三枝氏は気付く。どうしても「市民運動」ネタが増えてしまうのだ。

そのウラ事情については、後編で。

三枝玄太郎(さいぐさげんたろう)
1967(昭和42)年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1991年、産経新聞社入社。警視庁、国税庁、国土交通省などを担当。2019年に退職し、フリーライターに。著書に『三度のメシより事件が好きな元新聞記者が教える 事件報道の裏側』『十九歳の無念 須藤正和さんリンチ殺人事件』など。

デイリー新潮編集部