舞台は巨人との“伝統の一戦”

 今から39年前の1985年4月17日は、ファンの間で今なお語り継がれる“猛虎伝説”が生まれた日である。3番・バース、4番・掛布雅之、5番・岡田彰布のクリーンアップがバックスクリーンに豪快なアーチ3連発を叩き込み、巨人に逆転勝ち。この球史に残る快挙が、21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一への呼び水になった。【久保田龍雄/ライター】

 1985年の阪神は、4月13日の開幕戦で広島に延長10回サヨナラ負けを喫したあと、翌日は8対7と打ち勝って1勝1敗。そして、4月16日から甲子園を舞台に、巨人との“伝統の一戦”3連戦が幕を開ける。

 1戦目は、1点をリードされた阪神が4回2死、巨人の遊撃手・河埜和正の落球に乗じて一挙7得点のビッグイニングをつくり、10対2と大勝した。今にして思えば、この“世紀の落球”こそ、阪神のVロードを開いた最初のきっかけだったかもしれない。

 翌17日の2戦目は、阪神・工藤一彦、巨人・槙原寛己の両先発でプレーボール。1回表、巨人が3番・クロマティの右越え2ランで先手を取ると、阪神もその裏、2死からバース、掛布連続四球のあと、岡田が中前タイムリーを放ち、1点を返した。

 だが、その後は巨人が4、5回、阪神も2、3、6回に走者を出しながら、得点することができず、2対1と巨人リードのまま7回を迎えた。そして、試合もここから大きく動く。

不振にあえぐバースのバットが一閃

 7回表、巨人は先頭の4番・原辰徳が左中間に飛球を打ち上げたが、レフト・佐野仙好、センター・弘田澄男がお見合いして、三塁打にしてしまう。記録にならないミスでピンチを招いた阪神は、次打者・中畑清の中犠飛で3点目を失う。これで勝負あったかに見えた。

 その裏、阪神も先頭の木戸克彦が中前安打。1死後、一塁走者・北村照文(木戸の代走)が二盗を決め、1番・真弓明信も四球。一、二塁とチャンスを広げたが、弘田は左飛に倒れ、2死となった。次打者は開幕2連戦で5打席連続三振を喫するなど、打率.133の不振にあえぐバースだった。

 この日もバースは槙原のシュートにタイミングが合わず、3回無死一塁で二ゴロ併殺打に打ち取られるなど、2打数無安打と不発だった。

 槙原、佐野元国の巨人バッテリーも当然「ここもシュートで」と考えていた。前年もバースをわずか1安打に抑えていた槙原は、自信満々で初球からシュートを外角に投げ込んだ。

 ところが、どうしたことか、シュートがかからず、まるで魔が差したかのように144キロの棒球が真ん中へ。直後、「(槙原は)速い球が多いから、速い球を狙っていた」というバースのバットが一閃し、快音を発した打球は、起死回生の逆転1号3ランとなってバックスクリーンへ。この一発が、眠りかけていた猛虎を一気に目覚めさせる。

「カネボウから10万円相当の賞品が贈られます」

 次打者・掛布も「バースのどさくさに紛れて打つのではなく、冷静に僕と槙原投手との“勝負の間”をつくりたかった」と2球続けて見送ったあと、カウント1‐1から内角を狙った槙原の144キロ直球が高めに入ってくるところを見逃さず、バックスクリーン左へ連続アーチ。

「詰まっていたから入らないと思ったけど、アレヨアレヨと伸びていったね」(掛布)

 そして、この日、槙原から2安打とタイミングが合っている5番・岡田も本塁打を狙っていた。「前の2人が直球だから、もう(勝負球は)変化球しかない」と初球の直球を見送ったあと、1-0から槙原の2球目、高めスライダーを完璧にとらえた。

 打球がバックスクリーン中段に吸い込まれていった直後、スタンドは「信じられないものを見た」とばかりに一瞬シーンと静まったが、一拍置いて「ワーッ!」とわき返り、たちまちお祭り騒ぎに。

 異様な興奮状態に甲子園のウグイス嬢も冷静さを失ったのか、「この回、バックスクリーンにホームランを打ちましたバース、掛布、岡田選手には、スポンサーのカネボウから10万円相当の賞品が贈られます」とアナウンスしてしまった。正確に言うと、掛布の本塁打はバックスクリーン弾ではなかったのだが、結果的に3連発の快挙に便乗する形で賞品を手にしている。

21年ぶりVを象徴する「ビッグゲーム」

 伝説のバックスクリーン3連発が飛び出し、阪神が巨人に快勝――。リアルタイムで見ていないファンは、そんなイメージを抱いていてもおかしくないが、実は、この試合は最後までもつれにもつれ、吉田義男監督をして「緊迫したゲームでいい勉強になります。辛抱する勉強をね」と言わしめている。

 3点を追う巨人は9回、クロマティが2番手・福間納からこの日2本目の右越えソロを放ったあと、原も中越えソロで続き、たちまち1点差。次打者・中畑も本塁打なら、両チームともにクリーンアップ3連発が実現し、試合が振出しに戻るところだった。

 ここで吉田監督は、2年目の若手・中西清起をリリーフで起用した。初めて抑えを任された中西は、いきなり中畑に本塁打性の当たりを打たれたが、ファウルで命拾い。直後、中畑はレフトに痛烈なライナーを放ち、再びヒヤリとさせられたが、弾道が低かったのが幸いし、打球は佐野のグラブに収まった。

 これで落ち着いた中西は、吉村禎章、駒田徳広を連続三振に切って取り、6対5でゲームセット。見事プロ初セーブを挙げた。

 優勝したチームは、その過程の中で、「あの試合があったから優勝できた」と言えるようなビッグゲームがある。同年の阪神はバース、掛布、岡田のクリーンアップを中心とする強力打線でリードを奪い、最後は中西が締める勝ちパターンで、21年ぶりVを達成したが、その象徴とも言うべきビッグゲームが、4月17日の“伝説の巨人戦”だった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部