「メジャー通算382本塁打」の大型スラッガー

 今年で球団創設90周年を迎えた巨人が、公式HPで毎月9題ずつ球団史に関するクイズを出題している。球団史なら正解が決まっているので問題はないが、予想となると話は別。過去には、皮肉な結果に終わった予想クイズもある。【久保田龍雄/ライター】

 メジャー通算382本塁打のフランク・ハワードを獲得した太平洋(現・西武)が、“ホームランクイズ”を実施したのが、1974年だった。

 ハワードはセネタース(現・レンジャーズ)時代に2度の本塁打王に輝き、1970年には打点王も獲得するなど、これまで来日した助っ人の中ではトップのメジャー通算382本塁打、1119打点を記録していた。

 すでに37歳になっていたが、オープン戦で場外弾2発を含む3本塁打を放ち、健在ぶりをアピール。身長201センチ、体重113キロの巨体とあって、キャンプ地の宿舎で2つのベッドをT字型に並べ、長さ2.5メートルのジャンボベッドにアレンジした話も評判になり、シーズン開幕前に行われたサイン会も、少年ファンを中心に人気を集めた。

 そんなハワード人気に便乗し、球団も「今シーズン、ハワード選手は何本ホームランを打つか?」という「ハワード・ホームラン・クイズ」を実施。当選者には抽選でグアム島旅行が当たるというもので、ハワードのホームラン見たさに多くのファンを本拠地・平和台球場に集めるのが狙いだった。

日本に戻ることなく「現役引退」

 ところが、そんな集客作戦も開幕早々、画餅に帰してしまう。4月6日の開幕戦(日本ハム戦)、4番ライトで出場したハワードは、3打席目の三ゴロエラーで一塁に全力疾走した際に古傷の右膝を悪化させ、途中交代。当初は全治2週間と診断されたが、その後、回復が長引き、5月下旬に帰国。そのまま日本に戻ることなく、7月5日に現役引退を発表した。

 この結果、ハワードは出場わずか1試合、2打数無安打1四球に終わったが、皮肉にも3347人が応募したホームランクイズは、「0本」と答えた応募者が13人もいた。

 これには坂井保之球団代表も「この人たちはすごい眼力を持ってますね。外国人は来日してプレーするまでわからないといっても、大リーグで2度も本塁打王になっている打者ですよ。それを1本もホームランを打てないと予想するとは……」と脱帽するしかなかった。「0本」を正解と認定するか頭を悩ませたが、「1試合だけの出場だったので」と全応募者を対象に抽選を行い、3組に2泊3日のグアム島旅行を招待した。

「ホームランを打つのがオレのビジネス」

 前出のハワード同様、ホームランクイズが裏目に出たのが、1981年のヤクルトである。

 前年、6位から2位に躍進したヤクルトは、近鉄で2年連続本塁打王を獲得したチャーリー・マニエルが3年ぶりに復帰。4番不在の悩みが解消され、3年ぶりのV奪回へファンの期待も高まった。マニエル人気にあやかって、球団も「マニエル選手の本拠地(神宮球場)での第1号本塁打は、何月何日のどのカードで出るか?」というホームランクイズを実施した。

 正解者にはスイス製高級腕時計などの豪華賞品が贈られるとあって、4000通近い応募があり、その大半が本拠地開幕戦となる4月4、5日の阪神戦を予想していた。

 マニエル自身も「ホームランを打つのがオレのビジネス。ヤクルトを優勝させるためにベストを尽くすよ」と3年連続キングに意欲満々だった。

 ところが、近鉄時代の2年間DHを務め、守備機会のなかったマニエルは下半身の衰えからパワーダウン。開幕から15試合目、4月24日の阪神戦(甲子園)でようやくシーズン1号が飛び出したが、その後は打撃不振でスタメン落ちするなど、本拠地ではノーアーチのまま。そして、クイズの回答の中で最も遅い5月10日の阪神戦でもマニエルは本拠地1号を打つことができず、まさかの正解者ゼロという事態に……。

 対応に苦慮した球団側は、最後の回答が寄せられた5月10日を含む同8日からの阪神3連戦を予想した9通(5人)のファンに残念賞としてスポーツタオルとサインボールをプレゼントした。

 同年、マニエルは12本塁打に終わり(本拠地1号は6月3日の大洋戦)、シーズン後に解雇、チームも4位に沈んだ。

阪神のシーズン60勝はいつか?

 正解者がいないどころか、クイズ自体が不成立となったのが、1995年の“阪神60勝クイズ”である。

 同年、球団創設60周年を迎えた阪神は、ライバル・巨人が前年日本一になって球団創設60周年を飾ったことを受けて、「今年の目標は掛け値なしの優勝です」(久万俊二郎オーナー)とメモリアルイヤーの優勝を大目標に掲げた。

 地元テレビ局も「阪神のシーズン60勝はいつか?」というクイズを実施した。だが、2年連続Bクラスに終わった前年とほとんど戦力が変わらなかったことなどから、ファンの多くは「できない」と回答したといわれる。

 はたして、シーズンが始まると、阪神は開幕戦から5連敗を喫し、4月を6勝13敗と負け越し。5月以降もなかなか浮上の気配を見せず、60勝も早々と絶望的となったため、前出のテレビ局も慌ててクイズの内容を「チーム60本目のホームランは誰が打つか?」に変更せざるを得なくなった。

 その後も阪神は、7月に中村勝広監督が休養、藤田平監督代行に替わっても悪い流れは変えられず、9月5日に中日に敗れて109日ぶりに最下位転落。翌6日の中日戦で71敗目を喫し、シーズン60勝は絶望になった。

 結局、同年は46勝止まり。1987年を更新する球団ワーストの84敗でシーズンを終えた。そんな暗黒時代も、“アレンパ”を目指す今となっては、すっかり過去のものとなった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部