高い角度から見事な弧を描いて投げる「ルー・テーズばりのバックドロップ」に歓喜の声を送ったファンも多いでしょう。無尽蔵のスタミナと破壊力抜群の技の数々。ジャンボ鶴田さん(1951〜2000)を「最強だった」と評価する声は今も絶えません。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は鶴田さんの人生に迫ります。

「人生はチャレンジ」

 本名・鶴田友美。49歳の若さでこの世を去ったが、この人は理想を求めて人生を突き進んでいく人なのだなあと思ったのは1995年春。筑波大学大学院体育研究科に入学し、コーチ学を学ぶというニュースが流れたときだった。

 40代の再出発。すでに若いころのようなファイトはできない。若手を指導することでプロレス界に貢献できないかと考えた。当時は全日本プロレスの取締役も務めていた。言葉は悪いが、ぬるま湯につかって何となく生きていくこともできたはずである。大学院の受験に関しては、妻と全日本プロレス社長のジャイアント馬場さん(1938〜1999)にだけ打ち明け、巡業先でこっそり勉強していた。

 大学院の2年間でコーチ学と運動生理学を修得し、マスター(修士)となったジャンボ。東京スポーツ新聞でプロレス担当記者だった門馬忠雄さん(85)によると、慶応大と桐蔭横浜大の非常勤講師として教壇に立ち、1999年には米国の大学から「プロフェッサー(教授)」の待遇で声がかかったという。

「『人生はチャレンジ』というのがジャンボの精神だった」

 と門馬さんは語る。ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さん(1943〜2022)のように華やかでキラキラ輝く人ではない。地味だけれど実力や魅力を秘め、しっかり努力を積み重ねる人がジャンボだったのだろう。高級な外車を乗り回すのではなく、生活そのものは質素だったに違いない。

「人生、プロレスだけじゃない。その後のことも考えないといけないよ」

 と、その生き方を通じて後輩たちに示していたのだろう。プロレスラーに染まりきらない一般人、常識人であり続けたいという思いは人一倍強かったはずだ。

 1999年2月、都内のホテルで記者会見。「全日本プロレスのリングでレスラーとしてやり残したことはない」と正式に引退を発表。米オレゴン州のポートランド州立大学で運動生理学の客員教授として渡米することを明らかにした。なんとすがすがしい、希望にあふれたニュースではないか。

ブドウ農家で鍛えた基礎体力

 ジャンボは日本のプロレス史上最強とも言われるレスラーだった。山梨県の県立日川高校時代はバスケットボールの選手として鳴らし、中央大学入学後は、「五輪出場に一番近いと思った」というレスリングに転向。

 1972年のミュンヘン五輪ではグレコローマン100キロ以上級に出場し、あっけなく予選で敗退。図抜けた運動能力ではあったが、世界の壁の厚さを痛感した。この年、旗揚げされた全日本プロレスに馬場さんの門下生として入門する。記者会見で「全日本プロレスに就職します」とさわやかな笑顔で答え、米国で修行を積みスター街道を駆け上がった。

 私は77年8月25日、東京の田園コロシアムで行われたジャンボ鶴田vsミル・マスカラス(81)によるUN(ユナイテッド・ナショナル)ヘビー級選手権試合(60分3本勝負)をこの目で見た。マスカラスがレッグ・フルネルソンの奇襲で先制フォールを奪ったかと思えば、2本目はジャンボも負けじとミサイル・キックで1本返すという手に汗握る試合展開だった。最後の3本目は、一気に勝負を懸けたマスカラスのダイビング・ボディーアタックをジャンボが巧みにかわし、リングアウト勝ちを収めてUNヘビー級王座3度目の防衛に成功した。

 ジャック・ブリスコ(1941〜2010)、ハーリー・レイス(1943〜2019)、スタン・ハンセン(74)……。強豪外国人レスラーとの熱戦も懐かしい。長州力(72)、天龍源一郎(74)、三沢光晴(1962〜2009)ら日本の名レスラーとも王道のプロレスを繰り広げ、ファンの胸を熱くさせた。何よりも人並み外れたスタミナは「この人のエネルギーは無尽蔵だ」とレスラーたちを驚かせた。

 その一方で、体格や資質に恵まれ、無理をしないでも勝ってしまう強さがあった。それがどこか、のんびりとしたファイトに見えたのかもしれない。一時期、「善戦マン」と揶揄されたこともあった。

 前述した門馬さんによると、肺活量は師匠の馬場さんに劣らず8500もあったという。基礎体力は故郷の山梨県で培われたものだ。ブドウ畑が延々と続く坂道の一角。海抜500メートル強の小高い丘の途中に生家はあった。小中高と通学路はすべて坂道。足腰を徹底的に鍛えられた。

 実家はブドウ農家。子どものころから農作業を手伝った。ダンベルやバーベルなどを使って筋骨隆々に鍛え上げた肉体とは違う、しなやかで柔らかな筋肉がついたといえるだろう。その点は師匠の馬場さんが実家の八百屋の手伝いでリヤカーを引いて下半身を鍛えたのと環境が似ている。

 身長は196センチもあった。「もっとも動きやすい体重は?」と問われ、「そうね、118キロぐらいかな。120キロを超えるとちょっと重たい感じ」と語っていた(門馬忠雄・著「全日本プロレス超人伝説」文春新書)。相手を抱え上げて後方に投げ落とす必殺技のバックドロップは落差があり、描く弧は美しかった。

肝臓疾患との闘い

 コーナーポスト上段で右手を挙げる「ウオーッ!」という雄たけび。「♪甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に うれいなし」の武田節をこよなく愛した。だが、92年7月4日、横須賀大会で開幕の「サマーアクション・シリーズ」を足首負傷を理由に欠場した。

 実はジャンボの体はウイルス性肝炎に冒されていた。入院したが、完治せぬままリングに復帰。メーンの試合からは外れた。

 そして2000年5月16日、突然の悲報がマニラから飛び込んだ。同17日、朝日新聞の朝刊社会面はこのように伝えている。

《【マニラ支局16日】元プロレスラーのジャンボ鶴田(ジャンボ・つるた、本名鶴田友美=つるた・ともみ)氏が現地時間の十三日死去したのは、マニラ市郊外の病院で肝臓移植をした際、大量に出血したためであることが関係者の話で分かった。遺体は十七日、日本へ戻るという。葬儀・告別式の日程は未定。

 関係者によると、鶴田氏は重い肝臓病で今年一月に病院に入院。オーストラリアに渡り、肝臓移植に備えていた。鶴田氏が手術を受けたフィリピン国立腎臓研究所のオーナ博士によると、オーストラリアで提供者が見つからず、五月二日にフィリピンに来ていた。銃で首を撃たれた二十歳の男性が十二日に脳死状態となったため、十三日午前零時から手術が始まった。終了前の同日午後四時ごろになって、出血が止まらなくなったという。》

 ジャンボは一時、日本の病院に入院していたが、移植手術を受けられる可能性が高いオーストラリアに一家5人で移り住んだ。家族の話では、フィリピンでドナーが見つかったため、ジャンボは奥さんと子供を残し、マニラ入りして手術を受けたという。成功の確率はどのくらいだったのだろうか。ジャンボはそれもまた自分の運命と受け止め、手術に臨んだに違いない。

 フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」が好きだった。万感を込めた旅立ちを予感させる名曲である。まさにジャンボの生き方にふさわしい。絶頂期だったころ、新日本プロレスへの勧誘があったという。テレビ朝日が仲介しての交渉だったというが、ジャンボの考えは揺れなかった。生涯、全日本プロレスを貫き通した。病に倒れなかったら、国際的な視野を持って日本のプロレス界を牽引していたに違いない。

「どぶに落ちても根のある奴は、いつかは蓮の花と咲く」とフーテンの寅さんは歌ったが、まさに前向きに倒れ生きた人だった。2000年6月9、日本武道館で「カーン、カーン……」と追悼のゴングが鳴った。照明が消された館内。巨大なジャンボの遺影がスポットライトに浮かび上がった。

 次回は寅さん映画の初代マドンナを務めた光本幸子さん(1943〜2013)。気品にあふれ、和服が似合う優雅な女性。おちゃめで陽気なお嬢さんでもあった。寅さんが恋した「マドンナ」の原型をつくったといわれる光本さんの素顔に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部