田尾安志氏はプロ16年目の1991年限りで現役生活にピリオドを打った

 最後は指揮官とのやり取りで決意した。田尾安志氏(野球評論家)は阪神在籍時の1991年シーズン限りで現役生活に幕を下ろした。前年の1990年は5年ぶりに規定打席に到達するなど、119試合出場で打率.280、11本塁打、50打点と活躍したが、この年は5月終了時点で打率.140と低迷していた。6月下旬に2軍行きを告げられ「僕は今日、やめてもいいですから」と中村勝広監督に申し入れたところ「それでいいのか」と言われて引退が決まったという。

 引退1年前のプロ15年目(1990年)は、田尾氏にとって手応え十分のシーズンだった。村山実監督時代は代打がメインの仕事になっていたが、中村監督になったこの年は、再びスタメンで多く起用され、結果も出した。4月7日の広島との開幕戦(広島)に「6番・右翼」で出場して、4打数3安打3打点の好スタート。その後、打順も「5番」に上がり、4月を打率.328で乗り切って、波に乗った。

 7月5日の巨人戦(甲子園)では4回に宮本和知投手から右前打を放って通算1500安打も達成するなど、シーズンを通して活躍。規定打席にも5年ぶりに到達しての.280だった。「まだやれるなって気持ちでしたね」。この裏には“代打効果”もあったという。「代打をやって、すごく打席のメリハリというのをつかめた感じがした。ランナーがいない時にちょっと気が抜けるんですけど、得点圏とかにいればクッと集中するというかね」。

 中日時代の1982年から3年連続セ・リーグ最多安打をマークした田尾氏だが「中日で1番を打っている時にはそれがなかなかできなかった」という。「いつも平常心で同じような気持ちでやっていくと、意外とチャンスの時に打てないことがよくあったけど、代打を経験してチャンスをどれだけラッキーだと思えるかというか、“どうしよう”という気持ちではなく“いい時に回ってきた”と思えるようになってから、打てるようになってきたんです」と力を込めた。

「だから代打を経験できたのは自分にとってはプラスでした。同点打を打つのではなくて、状況に応じて、逆転打が打てる場面なら必ず逆転打を狙う。次につなごうと思っている間は、あまりいい結果が出なかった。自分で決めてやるんだというくらいの強い気持ちがないと、たぶんいい場面では打てない気がしますね」。そんな“つかんだ”ものがあったからこそ、15年目の好結果につながった。

2軍降格で中村監督と面談…「それでいいのか」の言葉で引退を決断

 だが、16年目の1991年は一転して開幕から不調にあえいだ。6月上旬からはスタメン機会もなくなった。6月29日のヤクルト戦(甲子園)に代打で凡退して打率は.146。試合後、2軍落ちを通告された。「コーチを通してだったか、言われました。あの時、みんな調子が悪かったんですよ。岡田(彰布内野手)も他の選手も。その中で最初に2軍に行けって言われて、ああ、そうかと思って、(中村)監督のところに行ったんです」。

 その場で田尾氏は「監督、自分の思い通りに野球をやってくださいよ、僕はもう今日やめてもいいですから」と話したという。「そしたら『それでいいのか』って言われたので『ああ、いいです』と答えました。その時に“1回ファームで調整してきてくれ、代打でも必要だ”みたいなことを言われたら、続けたんですけど『それでいいのか』のひと言で、もうそこまで感じていないんだなと思って『やめます』と言ったんです」。指揮官の言葉がグサリときたのだ。

 その日のうちにコーチ陣にも「お世話になりました」と挨拶。「『何かあったのか』って言われたので、『いえいえ今日でやめます』と言いました」。球団フロントには、この件でのマスコミ対応の仕方を聞いたという。「これからのことは外に向けてはどうしますかってね。でも、誰からも答えが返ってこないんですよ。『じゃあ、2軍で調整という形にしときますか』って僕から言ってそうなりました」と明かした。

 1991年10月14日、シーズン最終の広島戦(甲子園)が田尾氏の引退試合のような形になった。「3番・右翼」で出場し、2打数1安打。2打席目にヒットを打って出塁し、代走を送られて退いた。「最後はライト前ヒットだった。女房や子どもたちもスタンドから観戦してくれた。今みたいにマイクでしゃべるとかはなかったですけどね」。中日9年、西武2年、阪神5年の現役生活で通算成績は1683試合、1560安打、打率.288、149本塁打、574打点だった。

ラストアーチは引退前年…因縁の広島・北別府から打った

 田尾氏は1991年のラストシーズンで本塁打0だったため、1990年9月1日の広島戦(広島)で放った11号が現役ラストアーチになった。打った相手は広島・北別府学投手だった。「因縁の相手から打っていたんですねぇ。もしかしたら、僕が(広島に)行っていたかもしれなかったわけですからね」。当時はそれがラスト本塁打になるとは思うわけがないため、何の意識もしていなかったが、振り返って記録を知れば、それもまた感慨深いものになる。

 抽選で選択順を決定していた1975年ドラフト会議で、田尾氏は9番クジの中日に1位指名された。獲得に最も熱心だった広島は、その次の10番クジだったため、田尾氏を指名できず、のちに通算213勝の大エースとなる都城農の北別府投手を1位指名した。そういう関係の相手からラストの通算149号目を打ったわけだ。

 16年間の現役生活。「まぁ、いろいろあったんでねぇ……。1球団にいれば、もうちょっとやれたかなと思いますけど、それを差し引いても、いろいろ勉強させてもらった。僕はプロに入る時、35歳まではやらないといけないと自分の中では決めていた。35歳を超えてやれたら、よく頑張ったって思ってあげようとね。まぁ、37、38になる年まで現役をやれたから、そこはよくやったんじゃないかと思っています」。

 悔いはないという。「いろんな経験を積むというのは、どんな経験をするにしてもマイナスではないと思っているんでね。それをどう受け止めて、生かしていくかということですから。あそこはちょっといきすぎたな、やりすぎたなということはあったんですけど、それはそれで前向きに考えていくということであれば、もう特に悔いはないです」。バットをくるくる回して構える“円月打法”の安打製造機は、プロ野球界で間違いなく一時代を築いた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)