【「不登校」「ひきこもり」を考える】#24

 ある程度、傾聴や共感を続けていると、お子さんの中には今まで溜め込んでいた熱い思いが喚起されてきて、「悪いと思っているならもっと詫びろ、過去を償え」といった攻撃が親に向けて吹き出してくることや、「自分のこれまのつらい気持ちを少しでも反省する気があるなら、あれを買え、これを買え」といった無茶な要求を突きつけてくることも珍しくありません。

 これは、小さなお子さんの“試し行動”のようなもので、基本的には親の共感は本人にとってはうれしいことであるのです。ただ、過去に散々期待しても報われず裏切られたという体験を重ねていることからどうしても猜疑心が拭えず、「ぬか喜びしてかえって傷をえぐられるような思いはもうごめんだ」「ハードルを上げても親が本気で向き合ってくれ続けくれるのか?」を確認したいという警戒心の為せる技だと理解できます。

⑧責められても“売り言葉に買い言葉”を避け、気の済むまで言わせる

 こういう時には、「親に向かってその口のきき方はなんだ」「謝ったって時間はもう戻らないじゃない」といったような“売り言葉に買い言葉”に陥らず、「そんなふうに思うのね」「だとしたらとてもつらいわね」といったように、とにかく「つらかった」という気持ちにひたすら傾聴と共感を続けていくことが肝要です。お子さんが「そんなことしか言えないのか」「もっと言うことがあるだろう」と畳み掛けてきても、気の済むまで言わせることが大切です。そして、どこかで本当に親は変わったと確信した時、安心できたお子さんは別人のように穏やかな顔を見せるようになるのです。

 また、「激しく怒っている人や攻撃している人は、困っている人や泣いて悲しめない人」という心理学の言葉があるように、本当は当の本人もいくら親が謝ったところで失われた時が戻ってこないことは百も承知なのです。それでも、「そんな理不尽なことを言わないと気が済まないほど、本来感じなければならない一次感情レベルでつらかったことを未だに深く心から悲しみきれない。そのために、執着も断ち切れず、喉元がつかえるような苦しさが抜けない」ということを理解し、本人が心の底から泣けるほどに気が済むまで共感を続けることが、本当の意味での解決なのです。

⑨「死にたい」と言われても正論で返さない

 わが子に「死にたい」と言われて、動揺しない親はいないでしょう。湧き上がる不安や動揺を、「親より先に子が死ぬなんて親不孝だ」「お願いだから死ぬなんて言わないで」などと、これも正論で返すような言動は無意味です。「死にたいくらいつらいんだね」「殺してほしいほど困っているのね」とひたすら傾聴・共感に徹しましょう。

 正論なんて口にして、その場でお子さんの言論封鎖をしたところで、親が「なにかやっている」という安心感を得るための自己満足でしかなく、そんな話でいくら説得されてもお子さんの死にたい気持ちは消えません。

 そもそも、「『死にたい』という訴えは『死にたくない』」という言葉もあるように、本気で死ぬと覚悟した人は誰にも何も言わずに実行してしまうとも言われています。「死にたい」という訴えは苦しさを訴えているSOSで、何のSOSかと言えば、一次感情を感じられない苦しさで、希死念慮という二次反応への回避を表現しているのです。だから、そこに「死にたいなんて言うな」などと“臭いものに蓋”をするだけでは、親の視界から訴えは消えたとしても、「『死にたい』と表現する逃げ道すら塞がれてしまった。かといって一次感情に向き合えない」お子さんは、さらに極端で危険な方向に捌け口を求める--。つまり、本当に自死に追い込みかねない危険性すらあるのだと認識しましょう。

 実際、自死行動では、感情の感度が低下する「解離」、つまり感情不全との関連も報告されています。だから、気の済むまで傾聴・共感をすることこそが本人のために望ましい関わりと言えるのです。一方で、「練炭を買い込んでいる」「部屋から遺書の下書きが見つかった」といった、自死に直接つながるような危険な兆候や行動が見られたら、「本気で死ぬ気はないんだ」と高を括るのではなく、主治医や警察、保健所や精神保険福祉センターといった行政機関にもリスクマネジメントとして相談しましょう。どちらであっても、共感なくただ正論を説くことが有害無益であることには変わりありません。(つづく)

▽最上悠(もがみ・ゆう) 精神科医、医学博士。うつ、不安、依存症などに多くの臨床経験を持つ。英国NHS家族療法の日本初の公認指導者資格取得者で、PTSDから高血圧にまで実証される「感情日記」提唱者として知られる。著書に「8050親の『傾聴』が子供を救う」(マキノ出版)「日記を書くと血圧が下がる 体と心が健康になる『感情日記』のつけ方」(CCCメディアハウス)などがある。