1994年の5月1日に行なわれたF1サンマリノGPの決勝。このレースで、ウイリアムズのマシンをドライブしていたアイルトン・セナがタンブレロでクラッシュし、その命を落とした。

 事故の原因については今も様々な意見が存在するが、その中のひとつに、セーフティカーがあまりにも遅すぎたため、その間にF1マシンのタイヤの内圧が下がり、それがセナの事故に繋がったという論調もあった。

 この時セーフティカードライバーを務めていたマックス・アンジェレリは当時のことを振り返り、パフォーマンスが著しく劣るセーフティカーから100%のパフォーマンスを引き出したと自信を持っているものの、事故が起きたことについては、長きにわたって自責の念に捉われ続けたという。

 セーフティカーがF1に正式に採用されたのは、1993年のことだった。今でもF1ドライバーたちは、「セーフティカーが遅すぎる」と苦言を呈することが多いが、当時のセーフティカーは今以上にF1マシンとのパフォーマンス差が大きく、セーフティカードライバーのアンジェレリにとっては、まさに悪夢のような状況だったようだ。

 このアンジェレリの助手席に座っていたのが、後にF1のレースディレクターを務めることになるチャーリー・ホワイティングだった。ホワイティングは2019年に急逝してしまったため、その時の体験を今改めて訊くことはできないが、数年前に公開されたマックス・モズレーの動画の中で、セナの事故を振り返る際に、ホワイティングは当時のセーフティカーの状況を語っていた。

「私は当時、セーフティカーのオブザーバーだった」

 FIAのテクニカルデレゲートを務めていたホワイティングはそう言う。

「それは私の義務のうちの、小さなモノのひとつだった」

「レース中には、やるべきことがあまりなかった。だから私は、当時セーフティカーに乗っていたんだ」

「メインストレートで事故があった。ペドロ・ラミーが関係する事故だったと思う(スタートでストールしたベネトンのJ.J.レートのマシンに、後方スタートだったロータスのラミーが追突。コース上に多くのデブリが散乱した。またこのデブリは、観客席にも飛び込んでしまい、負傷者を出すことになった)。それでセーフティカー出動が宣言され、我々はコースに出ていった」

「レースをリードしていたのはセナだった。それは、昨日のことのように覚えている」

「我々がシケインを通過しようとしていた時、セナはマシンを横付けしてきたんだ」

「彼はまさに隣にいて、バイザーを上げて『もっと速く! もっと速く!』と言っていた。私は『無理だ。これ以上速くは走れない。不可能だ』と言った」

「ブレーキは熱くなっていて、匂いもしていた。そして気の毒なドライバーは、このクルマで最善を尽くしていた。その周の終わりに我々はピットに戻ったが、その1周後に彼(セナ)が事故を起こしたんだ」

■パワー不足の上、重過ぎた

 当時セーフティカーとして使われていたのは、オペル・ベクトラであった。この車両は重量が1350kgもあり、しかもパワーは204馬力しかなかった。しかもほぼノーマルの状態だったようだ。

 そんなマシンでF1マシンを先導するのは、セーフティカードライバーのアンジェレリとしては、イモラに到着したその瞬間から懸念していたものだった。

 書籍『セナ:真実』の中でアンジェレリは、セーフティカー出動の時の恐怖について、次のように回顧している。

「クルマを見せてもらった時、背筋が寒くなったよ」

 そうアンジェレリは語った。彼は当時ドイツF3にも参戦しており、その2年前にはイタリアF3でタイトルを獲得していた人物。イモラのコース特性も熟知していた。

「F1マシンの集団の前を走るのには、適していなかったんだ」

「僕はチャーリーのところを訪れ、自分の疑問を説明した。クルマには十分なパワーがなく、そしてサーキットで使うのに適切なブレーキシステムも備わっていなかったんだ」

 アンジェレリは、オペルで練習走行を行なったが、その懸念は劇的に高まっていった。

「それは本当に災害とも言えるモノだったんだ」

「2回の下り(アクア・ミネラリとリヴァッツァ)では、減速するために錨が必要だったね」

「わずか2周走っただけで、ブレーキが過熱しすぎてしまい、ペダルがスポンジみたいな踏み心地になってしまった。制動距離が長くなってしまった。とても心配したんだが、私が恐怖を抱いていたとしても、何も変わらなかったんだ」

■代替の手段を見つけたのに……

 オペルではF1のセーフティカーとしては十分ではないと真面目に懸念を深めたアンジェレリは、他に適切なマシンがないか、それを探し始めた。それで行き着いたのが、ポルシェ・スーパーカップのパドックだった。

「僕は自分の選択を誇りに思ったね。それで、セーフティカーのカッティングシートとカメラを、ポルシェのコクピットに移し始めたんだ」

「土曜日の朝には全ての準備が整っていた。でも彼らは、911は使えないと僕に言ったんだ」

「僕はまだ若かったから、F1における色んな力関係を理解しきっていなかった。僕が知らなかった、商業的な契約があったみたいなんだ」

「僕としては、オペル・ベクトラはセーフティカーには適していなかった。それでより適したクルマがポルシェだった」

「でも何も説明されず、全て分解してベクトラに組み立て直すように言われたんだ。楽しいはずのことが、悪夢に変わる可能性があることに気付いたね」

■ヘルメットを被る余裕もないまま、急遽出動

 結局アンジェレリには、オペルを走らせ続けるしか選択肢はなかった。しかしスタート直後にいきなりクラッシュが起き、セーフティカー出動が宣言された。まさに急遽の出動……アンジェレリにはヘルメットを被る時間も、レーシングスーツを着る時間もなかったのだ。写真を見ると、ヘルメットを被らずにオペルを走らせるアンジェレリの姿が写っている。

「全て突然起こったことなんだ」

 そうアンジェレリは回顧する。

「上半身はまだ防火服を着ていなかったし、ヘルメットも後部座席に置かれたままだだった」

「事故には驚いたけど、それは完全の僕のせいだった。チャーリー・ホワイティングは無線で指示を受け、すぐに出発するように私に言った。コースに入るには、ピットボックスを通過する必要があったんだ」

「チャーリーはコントロールを維持し、落ち着いた口調で命令を話した。彼は僕が数回レースしていたマカオのレースディレクターを務めていた人だから、僕は彼のことをよく知っていた。

「彼は右側のシートに座っており、指示を実行するためにレースコントロールと繋がった無線のヘッドセットを装着していたため、ヘルメットを着用していなかった」

「我々はコースに入って減速し、後ろにマシンが追いつくのを待った。そしてバックミラーを見ると、首位を走るセナのウイリアムズが近付いてくるのが見えた」

「スピードは上がったけど、クルマの限界は十分に承知していたので、100%のパフォーマンスを発揮するつもりはなかった。レースが再開されるまで、どれだけ走らなければいけないか分からなかったからね」

「ブレーキが効くのは、せいぜい2〜3周だろうと分かっていた。だから慎重にブレーキをかけるようにしていた。一方加速する時には、スロットルペダルを強く踏み過ぎてしまって、床に穴が開きそうだったよ」

■クルマが止まっているように感じた

 F1マシンの隊列を率いている時の恐怖と言ったら、練習走行中のそれとは比べ物にならないほどだったと、アンジェレリは振り返る。

「加速という面では、イモラはベクトラにとって挑戦じゃなかった。少なくとも、ふたつの登り以外はね。最も重要なのは、アクア・ミネラリの出口だったんだ」

「バリアンテ・アルタに向けて加速している時には、オペルは限界に見えたよ。時速130kmを超えることはできなかった」

「隊列をリードしていたセナが、何度か横に並びかけてきて、拳を振り上げて『もっと速く行け!』と言っていた。記憶から消してしまいたかった記憶が蘇りつつあるね。最後にアイルトンの目を見たのは、チャーリーと僕だったと思う」

「アイルトンは激怒していたけど、それは当然だった。彼のウイリアムズにとってはスピードが遅すぎて、タイヤの内圧と温度は下がっていただろうからね」

「ホワイティングは黙っていた。僕にもっと速く走れとは言わなかったんだ。彼はベクトラのパワーが十分ではないことに気づいていたし、ダッシュボードの全ての警告灯が点灯している状況だった」

「リヴァッツァに向けての下り坂でブレーキをかける時、優しくペダルを踏まなければいけなかった……だからスピードはとんでもないモノだった。3周した後、あらゆる予防をしたにも関わらず、ラインがワイドになって縁石を越え、芝生の上に2輪が出てしまった」

「この時点で僕は心配になった。そしてチャーリーにこう言ったんだ。『ほら、もうブレーキがないんだ。あと1周は走れるけど、それ以上は無理だから、ピットに戻ろう。危険だ。セーフティカーがコースアウトしたら、僕らは一体どうなるんだい?』とね」

 ホワイティングは、レースコントロールにそのメッセージを伝えた。しかし、セーフティカーはステイアウトするようにという指示が戻ってきたという。

「走り続けたけど、ペースはどんどん遅くなっていった」

 アンジェレリはそう語った。

「恥ずかしくなってしまったよ。ベクトラが悪いわけじゃないよ。でもあのクルマは、F1マシンを率いるには適していなかった」

「4周目が終わり、ついにレースコントロールは、レースを再開するために僕らにピットに戻るよう指示してきた。そしてピットに入り、オペルを止めてエンジンを切った。そのエンジンは、もう二度とかからなかったんだ。つまり、クルマは完全に死んでいたんだ」

「その2周後、アイルトンの事故が起きた。そしてレースコントロールは、すぐに赤旗を出してレースを中断した。そうしなければ、僕らは動けなかっただろう」

■セナの怒りが、頭から離れない

 セナがセーフティカーに向かって何度も拳を振り上げ、スピードを上げるように訴える姿は、後に起きる悲劇的な事故とリンクして語られるようになった。そのことは、アンジェレリを悩ませることになったという。

「僕が経験したことを話すよ。僕は何年もの間、あの事故に関して自責の念を感じていたんだ」

 そうアンジェレリは語る。

「彼のタイヤの内圧が下がり、それによってマシンがタンブレロのバンプで底打ちしてしまったのではないかと思ったんだ。あるいは、コースアウトする前に何かを壊したのかもしれない」

「事故は再スタートが切られてから3周目の前半、つまりレースの7周目に起きた。その時点で、タイヤが適切なグリップを発揮するために必要な内圧と温度に戻っていたかどうか、僕には正確なことは分からなかった」

「疑問を払拭するために、僕はレース後に、そのレースでフットワークのマシンをドライブしていたジャンニ・モルビデリに電話をかけた。すると彼は、『心配しなくていい』と言ったんだ。そして『タンブレロはすぐに全開で走ったけど、路面にぶつかってもマシンのコントロールに大きな問題は発生しなかったよ』と教えてくれた」

 しかしアンジェレリは、セナの死に関する裁判の中で、法的な捜査の対象となってしまうことになった。

「何も反応がないと思っていたんだけど、僕は自分自身のことを守らなければならなかった」

 そうアンジェレリは語った。

「僕はウイリアムズの弁護士に呼び出された」

「それは、実際に起きたことから、セーフティカーの役割に注意を逸らす試みであるように感じた。つまりセーフティカーが遅すぎてタイヤの内圧が下がり、それがウイリアムズをコースアウトさせる原因になったということにしたいのではないかと思った」

「でも僕に言えるのは、難しい状況の中で、クルマのポテンシャルを100%引き出したということだけだった。まずはブレーキを労り、そして車両が許容できるペースを維持しようとした」

■心の傷を癒す日々

 セーフティカーが遅かったことが、セナの事故の一因となった可能性は、後に正式に除外されることになった。しかしその日の感情は、アンジェレリにその後何年にもわたって影響を及ぼしたという。

 IMSAでレースをした時には、1994年にウイリアムズでセナのレースエンジニアを務めていたデビッド・ブラウンと共に仕事をしたが、事故のことについて話し合うことはなかった。

「これは、僕らがこれまで扱ったことのないテーマだ」

 そうアンジェレリは言う。

「あれから30年が経った。あの呪われた日の細かい全てを、覚えているわけではない。でも、深い感情とそれが僕に残した傷跡のことは、今でも覚えている」

「歴史上最も偉大なドライバーが、僕の横にやってきて、もっと速く行けと拳を突き上げるのを見た。僕が自分がとてもちっぽけなモノになったように感じた。消えたかったし、生まれてきたくなかったとすら感じたよ」

「僕にとってそれは酷いことだった。彼がウイリアムズのコクピットから、僕に話しかけているのが見えた。彼が僕に送ってくるメッセージは、実に明白だったんだ」

「僕は罪悪感を感じながら、サーキットを後にした。酷い感情だった。モルビデリの言葉は慰めにはなったけど、僕の良心が静まったわけではなかったんだ」

「でもそれから30年が経って、心の傷はゆっくりと癒されてきたんだ」